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かつての中新田・大野地区は集落の東側や北側にかけて入江が深く入り込み、高潮の被害を受けやすい地形であった。延宝8年(1860)8月6日に東海地方を襲った台風は、江戸時代最大と言われるほど多くの被害をもたらした。静岡県内では吉原・大井川・横須賀・浅羽・浜名湖口で高潮が発生したほか、江戸、三河国・田原(愛知県東部)・西尾・吉田(豊橋)などでも高波と高潮が記録されている。
延宝八年から二年ほどの間に書かれたとされる『百姓伝記』には、「打ち寄せた波は、横須賀城の中土井の前で止まり、城より南東の村々、西の村々は潮浸りになった。中でも東同笠村(どうりむら)・大野新田・中新田・今沢新田に潮が強くあたり、この村々で300人が死んだ。」と被害のすさまじさが記録されている。
『横須賀根元歴代明鑑』によると、中新田の命山(助け山とも記される)は延宝の高潮被害の後に造られ、その後の高潮では村人全員がこの山に登り、船で対岸の横須賀から食料を調達したり、潮が引くのを待ったことなどが詳しく記されている。大野の命山もこの時に造られたものと考えられる。 |
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<形状>
大野の命山は、周りの粘土質の土を盛り上げて築かれた。西側から削られているが、形状は二段築成の小判型で、基底部が東西24m、南北38m。上段部は東西17m、南北27mの長方形。高さ3.7mの規模である。
中新田の命山は砂質の土を盛り上げて築かれ、形態は方形というように同じ命山でも両者は異なっている。(静岡県指定文化財) |
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