|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
かつての中新田地区は、集落の東側や北側にかけて入江が深く入り込み、高潮の被害を受けやすい地形だった。延宝8年(1680)8月6日に東海地方を襲った台風は、江戸時代最大と言われるほど多くの被害をもたらした。
その頃に書かれたとされる『百姓伝記』によると、「午前5時頃より風が吹き出し、多くの人馬が死亡、海はしけとなり、降る雨は海水のように塩辛く、打ち寄せる波は潮浸しとなり、中でも東同笠・大野新田・中新田・今沢新田には潮が強く当たり、この村では老若男女300人が死亡した」とある。
この災害の後、村人たちは、横須賀藩の技術指導を受けて避難所となる築山(人工の小山)を集落の中心部に築いた。その後、高潮が発生した時は、村人全員がこの山に避難し、船で対岸の横須賀から食料を調達し、潮が引くのを待ったといわれている。そのうちに命を助けてくれる山ということで「命塚」「助け山」「命山」と呼ぶようになった。
中新田の命山は、周りの砂質土の土を盛り上げて築かれた。形状は二段構成の方形で、基底部が東西27m、南北30.5m、上段部は東西18m、南北26mの長方形で頂上の平場の面積は68uあり、高さが5mの規模となっている。(静岡県指定文化財) |
|