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<補陀洛山 観音院 長尾寺>(ながおじ)
開創は聖徳太子という説もあるが、739年に行基菩薩による説が一般的です。行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊とした。
その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して、国家安泰と五穀豊穣を祈願した。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の7日には「大会陽」が盛大に開催されている。
唐から戻った弘法大師は、再びこの地を訪れる。「大日経」を一石に一字ずつ書写し、供養塔を設立し、真言宗に改宗。天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰した。江戸時代に藩主、松平頼重が堂塔を整備。その時に天台宗に改めている。
仁王門には4m余の大ワラジがかかり、右に大師堂、左には護摩堂が配置されている。門前に元寇の役出征将兵の霊を慰めるために建てられた「経憧」(重文)が立つ。また吉野山で義経と惜別した静御前が母磯禅尼と共にこの古里に帰って長尾寺で得度し今は静御前剃髪塚がある。
明治維新以後、本坊は学校や警察、郡役所などの公共施設に提供され、地元では「長尾の観音さん」や「力餅・静御前得度の寺」として親しまれている。
本尊 |
聖観世音菩薩 |
真言 |
おん あろりきゃ そわか |
宗派 |
天台宗 |
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本堂 |
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大師堂 |
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<長尾寺経幢二基>重要文化財
経幢(きょうどう)は中国で唐から宋時代に流行したもので、わが国では鎌倉中期ごろからつくられ経文を埋納保存する施設、あるいは供養の標識として各地に建てられるようになった。この形式に単制と複制とがあり単制はこの経幢のようなもの、複制は幢身の上部に中台や龕(がん)部があって灯篭ふうになったものである。
この経幢は凝灰岩製で基礎の上に面取り四角柱の幢身を立て、その上に重厚な八の笠と低い宝珠をのせたもので東側のは弘安九年五月、西側のは弘安六年七月の銘があり一基ずつ相ついで奉納されたことがわかる。昭和29年9月17日重要文化財に指定された。 |
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境内の景観 |
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