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<熊野山 虚空蔵院 石手寺>(いしてじ)
石手寺は、奈良時代の神亀5年(728)に聖武天皇の勅願に応じ、伊予の太守・越智玉純(河野玉澄とも知られる)が夢でこの地は霊場だと感得し、熊野十二社権現を祀る道場として創設され、聖武天皇の勅願所となった。
天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
石手寺と改称したのは、寛平四年(892)の衛門三郎再来の説話によるとされる。 鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は880年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。
ここには、仁王門(国宝)、鐘楼(国重要文化財)、三重塔(国重要文化財)をはじめ、貴重な文化財が数多くある。
境内には、線香の香りとお遍路さんの姿が絶えない。 |
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<仁王門>
今から670年前に建てられたもので雄功豪抜な鎌倉期の特徴を発揮しており、楼門の蛙股は運慶の作と云われその繊巧秀美なることは当代の傑作という。左右の仁王像は県指定文化財で湛慶の作と云われている。国宝 |
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<三重塔>
高さ24.1m。全体の容姿はよく均整が取れ、鎌倉時代の特色(三間三重)の塔をよく伝える建物である。塔には真言八祖(龍猛、龍智、金剛智、不空、善無畏、一行、恵果、空海)の像が祀られている。なぜか一階部分の白壁塗りがある。境内の中心に位置し、五つの仏からなる曼荼羅世界を構成する。国重要文化財 |
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<本堂>
この本堂は、国宝の仁王門とほぼ同じ時期の建築とされているが、嘉永6年(1853)の同寺を描いた古絵図には阿弥陀堂の呼び名が書き入れられ、現在の阿弥陀堂を本堂としている。各所の手法は力強く、鎌倉時代末期の建築の特徴をよく残している。国重要文化財
本尊 |
薬師如来 |
真言 |
おん ころころ せんだり まとうざ そわか |
宗派 |
真言宗豊山派 |
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<鬼子母神>
この堂は訶梨帝母天(かりていも:鬼子母神)を祀っており子宝に恵まれない方々のお詣りがあとを絶たない。
この堂宇中央蛙股は非常に繊細なつくりで美しくこの様に小さな建造物に拘わらず肘木や釘隠しなど特徴あるものとなっている。国重要文化財 |
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願いがかない、子が授かると安産を念じ、お守り・寺院等の安産祈願によってさらに祈りを深める。無事出産されたら頂いた石に子供の名前、生年月日を書き、あと二つ、河原等で拾った石を添えて返す。 |
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<知恵の輪くぐり 子宝安産石>(左画像)
石手寺では古来より鬼子母神を祀っているお堂の石を一つ頂いて帰ると子宝に恵まれるという言い伝えがある。持ち帰る際に優しく健やかな子供に恵まれますよう、よくお願いすると同時にお守り・絵馬によって願いを深める。
<除罪苦与楽輪くぐり 元気再生石>(右画像)
石を一つ持って帰り、一年したら七添えて七転び八起きの石として返す。衛門三郎伝説に因んで、元気と改心、復活を得る。 |
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<護摩堂>
天竺と和洋折衷の建造物が多い中で、この堂宇のみが純粋な和様建築である点に特色あり、他の建造物と異なっている点は垂木がなく舟肘木どめでなっている。国重要文化財 |
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<大師堂>
巡礼祈願所。四国八十八カ所霊場巡りの人たちが次々とお詣りにくる。 |
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山門を抜けて左にある鐘楼(仕合わせの鐘)。奪い合うではなく与え合う仕合わせの鐘。 |
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境内にたつ弘法大師像。 |
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インドグランプリ作家三人の競作である「ブッダ伝記石仏」。ブッダ誕生から寂滅までを表現した石仏。 |
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石手寺の参道 |
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石手寺の土塀。当寺は、神亀5年(728)聖武天皇の勅願によって創建され、当時は安養寺と称していたが、弘仁4年(813)石手寺と改められた。寺名にまつわる伝説は有名で、領主河野伊予守息利の長子息方は衛門三郎の生まれかわりといわれ、出生後三歳まで、弘法大師筆の「衛門三郎再来」と書かれた小石を左手に握っていたと伝えられ、その小石が今も寺宝としてして残っている。 |
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身の上や みくじを(御籤)引けぞ秋の風
明治28年9月20日、日清戦争から帰還、二番町の愚蛇佛庵(ぐだぶつあん)で夏目漱石と同居。療養中に子規が柳原極堂とともに石手寺を散策した時の句。
その時拾った御くじは「二四番凶。病は長引く也」とあり、「我身にひしひしとあたりたるも不思議なり」と散策集に当日の感懐を記している。 |