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<秋田犬の起源>
1630年代に大館地方の藩主佐竹候が藩士の闘志を養うため闘犬を奨励し、日本古来のマタギ猟に使われた犬と土着犬などとの混血で作られたと言われている。
明治・大正時代は、あまりの白熱ぶりに闘犬禁止令が出されるほどだった。昭和2年(1927)年5月に、当時の大館町長(現大館市)によって「秋田犬保存会」が設置された。これは、秋田犬の闘犬化が盛んに行われ雑種化してきたため、優れた秋田犬を保存するために設置された。
昭和6年(1931)年7月には、日本犬で最初の天然記念物として「秋田犬(あきたいぬ)」が指定された。太平洋戦争末期には、食糧難により保存に甚大な被害があったが、愛犬家の努力により数十頭の血統の正しい秋田犬が残された。戦後は、それを土台として、急速な繁殖が見られ、全国的に飼育されるようになった。また、戦争の影響で多くの秋田犬がアメリカに渡り、本家の日本をしのぐ高い人気を維持している。秋田犬は海外ではジャパニーズ・アキタ・ドックの名称で公認されている。 |
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<忠犬ハチ公>
秋田犬といえば、忠犬ハチ公を連想する人も多い。実際に忠犬ハチ公の話は海外にも知れ渡るほど有名で、ハチ公が東京帝国大学の教授であった、上野栄三郎氏に飼育されていた期間は1年半弱であるにもかかわらず、氏の亡き9年間にも渡って渋谷駅に通いつめた事がこの話を特別なものにした。 |
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<ハチ公像>(東京・渋谷駅前のハチ公像)
昭和7年(1932)10月4日、東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」というタイトルで載ったのをはじめ、新聞、ラジオなどで報道されたハチ公の元に、人々から見舞金等が送られてきた。
また、昭和11年(1936)には「恩ヲ忘レルナ」と題して尋常小学校の修身二巻にも載せられた、ハチ公が有名になるに従い、付近の住民からはハチ公の銅像を建設しようという声が出始め、有志によってによって「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作成され建設資金の募金活動を開始、全国各地から好意の寄付が集まった。
この寄付によって昭和9年(1934)4月に除幕式が行われ、式にはハチ公も出席した。ただし、この時の像は戦中に金属資源として徴収され、現在のものは昭和23年(1948)に再建された2代目の像である。(説明文は、現地解説文を引用) |
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