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江戸時代に設置された新居関所の西側、山裾に並ぶ寺院、神社を巡るように続いている狭い通りが寺道です。
新居関所は今切の関所とも言い、慶長5年の秋、徳川家康が新居の元屋敷に創設したが、その後津波のため元禄14年中屋敷に、宝永5年現在の所に移転している。寺道は、宝永年間の災害で新居宿が流された際、寺と神社を山側に移動させて作られた。この寺道は、旧東海道に沿って続き、緑豊かで静かな情緒ある小路です。 |
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<新福寺>(瑞龍山 新福寺)
新福寺は往古天台宗の寺で、真達公の開創と伝えられている。
天正元年(1573)直傳龍察和尚がこの地に至り、曹洞宗に改め、草創開山となった。慶長元年(1596)三ヶ日金剛寺吉山宗豚和尚を請待して開山と仰ぎ、慶長18年(1613)浜名湖周辺を支配していた初代代官彦坂文右衛門英信により、諸堂の改修が行われた。
宝永4年(1707)の大地震で諸堂の全てが壊滅したが、翌年寺を現在地に移転再興した。山門の両側には、百観音(石仏)が安置され、墓地上段には、彦坂文右衛門英信の墓がある。 |
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<隣海院>(新居山 隣海院)
永享8年(1436)真達将公和尚が日ケ崎村に隣海庵を開創し、慶安元年(1648)曹洞宗に改宗するとともに進外能迪和尚を迎え、日ケ崎山隣海院となる。
宝永4年(1707)大地震の大津波により諸堂が流出、翌年当地に移転、日ケ崎山を新居山と改める。
文化7年(1810)の大火災により諸堂が消失したため、各所の修理、改築を行った。山門は火災を免れ、最も古い建物として残り「ジキジキ像」が祭られている。位牌堂には山岡鉄舟の額、鐘楼堂東には歌碑、観音堂には三十三観音像がある。 |
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<本果寺>(正興山 本果寺)
もとは真言宗の寺であったが、元中7年(1390)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。
宝永4年(1707)の大地震の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在の地に移転した。徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養のめぐみ観音を祀る。
俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もある。平成12年(2000)一字一石経の経塚に、「あけぼのの鐘」が建立された。 |
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<神宮禅寺>(白翁山 神宮禅寺)
寺紋は十六菊、伊勢神宮信仰に関係があったと思われる。創建時は日ケ崎にあったが、宝永4年(1707)の大地震後、新居宿のまちづくりと共に現在地に再建された。明治になって要津寺と光珠庵が当寺に合寺した。
境内には、子安観音、関所稲荷(忠臣蔵に出てくる土屋主税が建立)、東海道の旅人の安全を見守っていた鯖弘法大師が祭られている。
<六地蔵>
六地蔵とは、釈迦の入滅後から弥勒菩薩が出世するまでの無仏時代に出現し、六道の全てに姿を現すことのできる唯一の菩薩であり、六道の全ての生き物を相手に教えを説き、救いの手を差し伸べてくれると信じられている。
亡くなった肉親・知人たちが、六道のどこに生まれ変わっていよううと、その人を救って頂けますようにと願って六地蔵が作られた。
<六道>
禅林地蔵 地獄道 罪悪を犯すことによって受ける責め苦
牟尼地蔵 餓鬼道 貪欲な嫉妬によって引き起こされる苦しみ
護讃地蔵 畜生道 自分を反省しようとしない愚かさによって受ける苦しみ
諸龍地蔵 修羅道 争って、他者を打ち負かそうとする事によって受ける苦しみ
伏勝地蔵 人間道 身体と生活にまつわる苦しみ
伏息地蔵 天 道 快楽に満たされても、必ずそれを失う苦しみ |
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<諏訪神社>
諏訪神社は景行天皇(約千九百年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永5年(1708)現在地に遷座となる。
現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(1590年頃)諏訪大明神の分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。 |
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<龍谷禅寺>(東湖山 龍谷禅寺)
創建当時は現在の浜松市入野町にあったが、寛文5年(1665)当地出身で山崎(浜松市西区雄踏町)の安寧寺住職であった萬牛和尚は、新居から山崎への信徒の往来の苦労を思い、東に湖を望むこの地へ嗣の絶えている東湖山龍谷寺を再興、開山となった。さらに、海を埋め立てて境内地を広げた。その地は、「龍谷寺掘り」と言い、現在でも地名が残っている。
宝永4年(1707)の大地震で諸堂が崩壊。翌年、第二世の江国和尚が現在地に再建する。鎮守堂には、学問の神様「天神様」が祀られている。 |