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桜川沿いに水上通りを三島大社に向かう。川沿いの小道は「水辺の文学碑」の石碑が立っている。少し進むと「白瀧観音堂」があり、そこから文学碑が続く。「静岡まちなみ50選」に撰定されている。
<桜川>
菰池や白滝公園を水源とする桜川は、三ケ所用水とも呼ばれ、旧三島宿・錦田村字中・旧中郷村字中島の三カ所の農業用水となっている。
桜川は、農業用水としての利用が主であるため、横浜ゴム付近で複雑に分水されていて、それぞれ中、藤代町、森永製菓南の耕地などへ導水されている。流末は、大場橋付近で暗渠になっており、梅名橋付近から御殿川に流れている。
また、白滝公園付近には”はや”が生息しており、川沿いを歩く人が思わず足を止めて川の中をのぞき込んでいる風景に出くわす。
白滝公園は昔から「水泉園」と呼ばれ、富士の湧水にふさわしい地名として市民から親しまれている。
<白瀧観音堂>
このお堂は平安時代末からここ水上の地に在って、観世音菩薩が祀られている。当時は現在地より北に位置し、堂のかたわらに白いしぶきを上げながら瀧が落ちていたところから白瀧観音と尊称されたと伝えられる。
江戸時代には此の地に移ったといわれ、一時荒廃したものを常林寺17世達玄大和尚これを見出し寺内に拝し奉祠された。これを機に町内でも有志が再建しお祀りする様になり、現在この縁をもとに毎月18日常林寺住職が出向し例祭を催している。
<井上 靖>
三島町へ行くと
道の両側に店舗が立ちならび、
町の中央に映画の常設館があって、
その前には幟(のぼり)旗が何本かはためいていた。
私たち山村の少年たちは、
ひとかたまりになり、
身を擦り合わせるようにくっつき合って、
賑やかな通りを歩いた。
「少年」(昭和29年(1954)発表)より |
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<正岡子規>
三島の町に入れば 小川に菜を洗ふ女のさまも やや なまめきて見ゆ
面白や どの橋からも 秋の不二
「旅の旅の旅」(明治25年(1892)作)より
<十返舎一九>
日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き、鳥もねぐらに帰りがけの駄賃馬追ったて、とまりを急ぐ馬子唄のなまけたるは、布袋腹の淋しくなりたる故にやあらん。
このとき、ようやく三島の宿へとつくと、両側よりよびたつる女の声々・・・
女「お泊まりなさいませ、お泊まりなさいませ」弥次「エエ、ひっぱるな、ここを放したら泊まるべい」女「すんなら、サア、お泊まり」弥次「あかんべい」
・・・喜多「いい加減に、此所へ泊まるか」女「サア、お入りなさいませ、お湯をお召しなさいませ」弥次「ドレ、お先に参ろう」・・・と、はだかになりてかけ出す。
女「モシ、そこは雪隠(せっちん)でございます。こっちへ・・・」
弥次「ホイ、それは」と湯殿へゆく・
東海道道中膝栗毛(享和2年(1802)初刊 |
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<若山牧水>
宿はづれを清らかな川が流れ
其処の橋から富士がよく見えた。
沼津の自分の家からだと
その前山の半ばを隠しているが、
三島に来ると愛鷹はずっと左に寄って、
富士のみがおほらかに仰がるるのであった。
克明に晴れた朝空に、
まったく眩いほどに その山の雪が輝いていた。
「箱根と富士」(大正9年(1920)作)より
<司馬遼太郎>
この湧水というのが、
なんともいえずおかしみがある。
むかし富士が噴火してせりあがってゆくとき、
溶岩流が奔(はし)って、いまの三島の市域にまできて
止まり、冷えて岩盤になった。
その後、岩盤が、ちょうど人体の血管のように
そのすきまに多くの水脈をつくった。
融けた雪は山体に滲(し)み入り、水脈に入り、
はるかに地下をながれて、溶岩台地の最後の縁辺(はし)
である三島にきて、その砂地に入ったときに顔を出して湧くのである。
小説新潮昭和61年(1986)2月号掲載
「裾野の水、三島一泊二日の記」より |
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<太宰治>
町中を水量たっぷりの澄んだ小川が
それこそ蜘蛛の巣のやうに
縦横無尽に残る隅なく駆けめぐり、
清冽の流れの底には
水藻が青々と生えて居て、
家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、
台所の岸をちゃぶちゃぶ洗ひ流れて、
三島の人は台所に座ったままで
清潔なお洗濯が出来るのでした。
「老(アルト) ハイデルベルヒ」(昭和15年(1940発表)より
<穂積 忠>
町なかに 富士の地下水 湧きわきて 冬あたたかに こむる水靄(もや)
歌集「叢」(くさむら)(昭和30年(1955)刊)より |