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膏薬辻子(こうやくのずし)とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。また、膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられた。この地域は、皇后を何代も排出した大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)の邸宅である四条宮のあった場所である。
そして、この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が天慶元年(938)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。 |
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天慶3年(940)に、天慶の乱により戦死した平将門の首が京都の町で晒されて以後、全国で天変地異が相次ぎ、平将門の怨念の仕業とされたため、各地で平将門の霊を鎮めるために首塚が築かれた。京都でも、空也上人が、道場の一角に塚(現在の神田神宮)を建てて供養したことから、空也供養の道場と呼ばれた。そして、空也供養の発音が訛り、細い道を意味する辻子と合わせて、膏薬辻子と呼ばれるようになったとされている。 |
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<京都神田明神> 御祭神 平将門命・大己貴命・少彦名命
平将門は桓武天皇五代の後裔で、東国において武士の先駆者「兵(つわもの)」として名を馳せた人物です。この地は天慶の乱に敗れた将門の首級が京都に運ばれ晒されたと伝わる場所です。古来よりこの地に小祠が祀られていたが、このたび将門を祀る東京の神田明神よりご祭神をお迎えした。皇居のほとり、大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として、今なお都心の霊所として、将門の「強きを挫き、弱きを助くる」精神を慕い、参拝が絶えない。。
東京に鎮座する神田明神は、大己貴命、少彦名命とともに、平将門命を祀る神社です。天平2年(730)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後、延慶2年(1309)に将門が合祀された。
元和2年(1619)に江戸幕府より江戸城(現在の皇居)から見て表鬼門守護の地へ遷座した。江戸幕府より「江戸総鎮守」の称号をいただき、徳川将軍をはじめ江戸の町人たちにより崇敬されてきた。
神田明神の大祭・「神田祭」は「天下祭」「御用祭」とも称され、江戸城内において徳川将軍の上覧を仰いだ。明治7年には、明治天皇も陛下も親しくご参拝された。現在は「祇園祭」とともに日本三大祭の一つに数えられ、2年に1度、5月中旬に行われ、二百基に及ぶ神輿担ぎが賑やかに行われている。 |