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古代から日本の東国と上方とを結ぶ道は東海道。日本坂を越す駅馬の道、蔦の細道を越す伝馬の道とにわかれそれが手越(てごし−静岡市手越−)の手前あたりで合流し駿河の府(駿府、現静岡市)に入った。蔦の細道が標高200mという便利さもあって官道のようになり(日本坂は標高300m)豊臣秀吉のころまで続いたのである。ついで徳川幕府の五街道整備(慶長九年、1604年)によって一里塚設置となって東海道宇都谷峠道が生まれた。 |
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蔦の細道は、平安の頃からの古道で、在原業平が「伊勢物語」で”駿河なる宇つの山辺のうつつにも 夢にも人に逢はぬなりけり”と歌っている。江戸時代になり峠越えの東海道が新しく整備されたため、この道は廃道となった。
<蔦の細道の文学>
在原業平より約400年後(鎌倉時代1182−1333)藤原定家の子為家の側室阿仏尼は鎌倉幕府への旅に出た。当時日本は元が来寇して来た。文永・弘安の両役の最中だった。物情騒然殺伐たる東海道での女旅。建治3年(1277)10月のことである。(出発日が16日だったのでこの日記を十六夜日記という)
うつの山こゆるほどにしも、あざりの見知りたる山ぶし行き逢ひたり。夢にも人をなど、昔をわざとまねびたらむこゝちして、いとめづらかに、をかしくもあはれにもやさしくもおぼゆ。いそぐ道なりといへば、文もあまたはえかゝず、唯やんごとなき所、ひとつにぞおとづれきこゆる。
「我がこゝろ うつゝともなし うつの山 夢にも遠き むかしこふとて。
つたかへで しぐれぬひまも うつの山 なみだに袖の 色ぞこがるゝ」。
こよひは、手越といふ所にとゞまる。なにがしの僧正とかやのぼり給ふとて、いと人しげし。やどかりかねたりつれど、さすがに人のなき宿もありけり。
廿六日、わらしな河とかや渡りて、息津の濱にうち出づ。 |
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