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<昭和新山の生い立ち>
目前にそびえる昭和新山は、私達に大自然のいとなみの不思議を物語ってくれる。
この辺り一帯は、かつてはのどかな麦畑だったが、突然火山活動の舞台となった。昭和18年(1943)12月28日に激しい地震が始まり、多い時には身体に感じるものだけでも1日200回を超え、翌19年4月頃には元の地面から50mも隆起した。
更に昭和19年(1944)6月23日、盛り上がった畑に噴火が始まり、7個の噴火口をつくりながら、4ヶ月も爆発を繰り返した。その間も、田畑、民家(フカバ部落)、鉄道共々隆起が続き、標高300mの台地(屋根山)をつくった。11月になって、噴火口群の中央から地中で固まった溶岩が推し上がり始め、翌20年9月末に標高407mに達し、ようやくその活動を休止した。
今なお噴気を上げるピラミッド型レンガ色の部分が溶岩塔で、このタイプをベロニーテ型火山といい、世界的にも珍しい形式の火山です。 |
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<有珠山の活動概要>
有珠山は、洞爺湖をつくった洞爺カルデラ(火山の噴火に伴って陥没してできた凹地)の形成後、今から1万年くらい前に活動を開始したと考えられている。
始めは羊蹄山のような成層火山として成長したが、およそ7〜8,000年前に頂上部が崩壊し、南に開く馬蹄形の火口をもつ外輪山が形成された。このときの崩壊堆積物(流れ山)は、南麓の有珠地方に広く分布しており、善光寺岩屑流(がんせつりゅう)と呼ばれている。外輪山の生成後、有珠山は非常に長い間活動を休止していたが、1663年激しい爆発を起こし、活動を再開した。この時に噴出された軽石は日高山脈を越えて十勝平野にも堆積している。
その後、有珠山は30〜100年間隔で断続的に活動をくり返しており、四十三山(明治新山)をつくった明治43年(1910)の活動、昭和新山をつくった昭和18年〜20ねん(1943〜45)の活動、100年ぶりに山頂火口から噴火した昭和52年〜53年(1977〜78)の活動など、最近はほぼ30年間隔で噴火している。
平成12年(2000)3月31日、有珠山西側山麓から開始した噴火によって形成された火口群です。付近は噴火前には、主要国道と町道が併走し、一般住宅等も点在していた地域だったが、大小30余りの噴火口ができて、火山活動による地殻変動で最大70m隆起した。火口群一帯には、現在、木道が整備されており、地殻変動や噴石等によって倒壊した建造物、断層、現在も噴気を上げている地熱地帯など、火山の痕跡、自然の力の凄さを間近で体験することができる必見の火山見学ルートです。 |
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<三松正夫記念館>
明治21年(1888)磐梯山の噴火の年に生まれ、明治新山、昭和新山、没年には有珠新山と、その誕生を見守ってきた壮瞥郵便局長三松正夫氏。火山に魅せられ、私費を投じ、火山に一生を託した氏が克明に書き綴った昭和新山生成の記録をはじめ、書画の才能あふれる巧みなスケッチや書簡などの貴重な資料を展示してある。資料は昭和23年(1948)オスロでの国際火山学会議で「ミマツダイヤグラム」と命名され、学術的にも大変貴重なものとして絶賛を浴びている。
<ミマツダイアグラム>
昭和新山が誕生した頃は第2次世界大戦の末期で、軍部はこれを機密事項にし、火山学者も十分な調査・観測ができなかった。ところが地元の郵便局長三松正夫(1888〜1977)さんは、この火山誕生の詳細な観察記録を残した。これらはこの珍しい火山活動を分析するのに貴重な学術資料とされ、その一つが「ミマツダイアグラム」です。
三松さんの残した資料は、現在、山麓の「三松正夫記念館」(昭和新山記念館)で保存、公開されている。 |