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静岡県浜松市天竜区水窪町(旧磐田郡水窪町)から長野県飯田市(旧南信濃村)へ抜けるためには、この峠(兵越峠)を通らなければならない。地図上では青崩峠から抜けられるようだが、通行不能になっている。(地図から道が消えているのだ)幻の国道といっていいでしょう。
ここはかつて戦国時代に、武田軍が遠江の徳川軍に向けて進軍した峠道ということだが、遠く故郷を離れてきた武田の兵士たちはこの峠道の景色を見て何を思ったのだろうか、この峠道を登りながら何を考えていたのだろうか。これから戦う徳川軍のことだろうか、それとも故郷に残してきた妻や子、父母のことだろうか。何か寂しい、悲しい気持ちになってくる。木立の間に見え隠れする信濃の山々はきれいだが。 |
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この峠を兵越峠と名づけたのは武田信玄が上洛を志ざし、元亀3年(1573)10月3日(新暦11月18日)約2万5千の大軍を率いて信濃国遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠も越したと言われている。
信玄が上洛のため信濃国、遠江国の国境の峠を越すことに意を決めたのは信玄の家来秋山信友が永禄11年(1568)、遠江国奥山、天野の両氏を味方につけるためにこの峠を越し、探索ののち5年後、天野氏を道案内として天野氏居城へ向ったのである。
この国境にある2つの峠は青崩峠方面奥領家の谷は距離が短いため信玄の本体が通ったとしているが、兵越峠方面地頭方の谷は、北遠の穀庫といわれる谷で戦力を増すため雑兵、荷運搬馬は勿論の事、馬の餌、馬の草履、兵の草履、乾食料などの徴発や、敵が潜んでいるのを予想してこの峠を越したもので両峠は10月10日(新暦11月25日)に越し南下したのである。
この峠は信玄の兵が越したと言われるゆかりの峠である。
世の中の進歩が歴史の道を、そして峠を忘却の彼方に押し流そうとしている。それがどんなに歴史的な意義があろうがなかろうが。。。 |
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