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近江八幡の市街は起伏のない地形の上に広がっている。ともすれば、のっぺりと平板になりかねない佇まいを救っているのは、町の西北にでんと控えている八幡山である。一名、鶴翼山。山頂から見下ろす近江八幡の町並み。見事な下水路(八幡堀)さえ備えた横筋四通り、縦筋十二通りの整然とした碁盤目状の町並みは、悲劇の城主豊臣秀次がつくったものである。 |
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標高285m。ロープウェイでおよそ4分。はかなく、悲しい歴史を秘めた八幡山城址はこの山頂にある。往時を偲ぶものとしては、もはや石垣と礎石のみ。本丸の石垣。 |
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秀吉が甥の秀次に四十三万石を与え、八幡山城の築城を命じたのは天正13年(1585)8月。安土城炎上から3年の後であった。秀次はわずか18歳。
城は山頂の三方に伸びる尾根を利用し、それぞれ二の丸、北の丸、三の丸を配置。その中央に天守閣が建設されたであろうと推測されている。
5年後、秀次は尾張に転封となり、変わって京極高次が二代目城主となった。更に秀次の出世は続く。秀吉と淀君の間に生まれた鶴松の死で、秀次は秀吉の養子となり、関白職を譲られた。 |
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しかし、わずか4年後の文禄4年(1595)秀次は謀反を企てたとして切腹を命じられ、実子5人や側室とその子供たち30数人が京の三条河原で打ち首になったのだ。
秀次を養子にした後で秀吉に実子の秀頼が生まれたためだとか、秀次が毛利氏と組んで反逆したからだとか。
八幡山城主高次は大津城主に転じ、八幡山城は、わずか10年で廃城となった。秀次の母智子は京に瑞龍寺を建てて菩提を弔った。瑞龍寺は昭和37年(1962)、城跡に移築された。(八幡山城解説板より) |