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青崩峠(国道152号)は、遠州と信州の国境にあって古くからある信州街道(秋葉街道ともいう)の峠である。この峠は昔から海の幸や山の幸が馬や人の背によってこの峠を越して運ばれたことから「塩の道」ともいわれている道である。旧街道「塩の道」の最大難所であった。
また、戦国時代、武田信玄の軍勢が南攻のためこの峠を越えたと伝えられ、近世には多くの人々が信州、遠州、三河の神社・仏閣に参詣するためにこの峠を越した。
近代においては、可憐な少女達が製糸工女として他郷で働くために越した峠でもあり、多くのロマンと歴史を刻む峠である。
峠は標高1082m。国道152号線は青崩峠で行き止まりの幻の道だったが、三遠南信道の「草木トンネル」が出来て南信濃村(現在は合併して飯田市となる)へ行くことができるようになった。遠景の山々が信州である。峠周辺は、中央構造線による破砕帯になっている。 |
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<三方ヶ原合戦の武田軍侵攻と家康>
元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は遠江・三河に侵攻すべく甲斐を出発した。世にいう「三方ヶ原合戦」である。
信玄軍は高遠から伊那谷に入ったが、そこで兵を3つに分けた。一隊は信玄自らが率いる本隊で、そこからそのまま天竜川筋を南下し、一隊は三州街道を通って東三河に向かい、もう一隊は東美濃に入っている。
信玄本隊は青崩峠より遠江に入り、森の天方城・飯田城を落とした後、南下して一言坂で徳川軍と戦っている。そして、進路を天竜川沿いに北上し、二股城を開城させている。12月22日、天竜川を渡り秋葉街道を南下し欠下(がけした)のあたりで三方ヶ原台地にのぼった。この時の武田軍勢は2万5千人といわれ、これに対する徳川軍は信長の援軍を合わせ1万1千人である。
戦いは浜松より北に3里の地、祝田(ほうだ)の坂上あたりといわれている。家康は、「敵がわが城外を踏みにじって通るのを黙視できなかった。勝敗は天にあり、兵の多少にあらず。」と押し切って三方ヶ原に向かった。 |
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