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ひたすら自然のまま美しさを守り続けたきた桂浜は、高知県を代表する景勝地のひとつである。茂り合う松の緑と、紺碧の海が調和して見事な勝景を形づくっている。
また、桂浜は「よさこい節」にも唄われるように、古来より月の名所として知られ、仲秋の名月がはるか水平線より静かに浮かび上がり、洋上に金波銀波のおどる姿に、うっとりとさせられてしまう。 |
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桂浜公園内には、日本では南四国と九州の一部にしか生息していない幻の魚「アカメ」など、海の生き物がいっぱいの桂浜水族館や土佐闘犬の闘技(かみ合わせ)や横綱土俵入りが人気のとさいぬパークなどがある。 |
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坂本龍馬は高知の城下町に住む郷士の次男として生まれ(1835)、青年時代江戸の出、千葉道場で北辰一刀流を学び剣士として知られているが、文久元年(1861)、いちはやく武市半平太(瑞山)の土佐勤王党に参加した。
後、脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し又、 長州(山口県)の桂小五郎(木戸孝允)、薩摩(鹿児島)の西郷隆盛を説いて慶応2年(1866)薩長両藩の同盟協約を成功させ長州に押し寄せた幕府軍(徳川方)を撃破した。
これを機会に討幕運動が高まったが、龍馬はこの薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古を考え、土佐藩の参政後藤象二郎を説き、 立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。山内容堂(15代藩主)は後藤の提案を受け入れて慶応3年(1867)10月3日将軍慶喜に大政奉還を建白した。
将軍も時勢を察し、10月14日に政権返上を朝廷に上奏した。龍馬はこれを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町近江屋で幕府方の刺客に襲われ、同志中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。龍馬は海援隊長、慎太郎は陸援隊長として土佐藩の遊軍をつくり、
その活躍が期待されたが、幕末の新旧勢力対立の犠牲となった。時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。 |