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大王埼は、志摩半島の南東端にあり、遠州灘と熊野灘の荒波を二分するように突出しており、海の難所として知られているところです。そのため、早くから灯台の設置が望まれ、明治17年(1884)には建設の計画が起きていた。
灯台は、昭和2年(1927)5月16日、灯台局直営で着工され、同年10月5日初点灯した。 |
位置 |
北緯 34度16分34秒、 東経136度53分58秒 |
光り方 |
単閃白赤互光 30秒毎に白1閃光赤1閃光 |
光の強さ |
白色 250万カンデラ、 赤色 4.7万カンデラ |
光の届く距離 |
18.5海里(約34.3q) |
高さ |
地上から灯台頂部 約23m、 水面から灯火 約46m |
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ここ大王崎は志摩半島の南東端にあり、遠州灘と熊野灘の荒波を二分するかのごとくに突き出ている。昔から海の難所として船人達に知られており、ここで難破する船は後を断たず「大王の沖で難破しても船主は船頭にその罪を問わない」という言い伝えがあったそうです。そのため早くから灯台の設置が望まれていた。
しかし、建設の計画は早くから起こっているにもかかわらず実施にいたるには遠く、その後も大正2年(1913)にサンマ漁船が遭難し一瞬のうちに51名もの命が奪われた。そして、大正6年(1917)にも当時の日本海軍が誇る3000トンの巡洋艦「音羽」がこの沖の大王岩に激突、座礁するという事故も起こってしまい、この様な出来事により灯台建設促進には拍車をかけていった。
しかし、大正12年(1923)の関東大震災によって各地の灯台が倒壊し、その復旧には大正15年(1926)までの歳月を要した。そのため新設灯台の建設には着手できなかったようです。
そして、昭和2年(1927)、震災復旧後の新設灯台の第1号として念願の大王埼灯台が同年10月5日に点灯を開始した。当時の鉄筋コンクリート造りの灯台は角形が主流だったが、この大王埼灯台は円形白塗りで下部には扇型の2階建付属舎をもつ斬新な設計で、他に例を見ない立派なものだった。
その後、灯台は太平洋戦争中、米軍艦載機の機銃掃射をうけ、灯籠、レンズ、灯器に大きな被害を受けたが、灯塔には僅かに弾痕をとどめる程度で破壊は免れた。そして、昭和53年(1978)に半世紀ぶりの大改修を行い現在の姿となった。
灯台の業務面でも昭和29年(1954)に大王崎無線方位信号所が新設され、翌30年(1955)には船舶気象通報業務も行っている。また、昭和41年(1966)には大王崎大王岩照射燈が併置され、300万カンデラの光度で大王崎の北東にある大王岩を照らし、付近を航行する船舶に注意を促している。 |