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当地ゆかりの文人達
<尾崎士郎>
明治31年(1898)〜昭和39年(1964) 菊富士ホテルに止宿
早大政経中退。在学中に社会主義思想に接近。菊富士ホテルで宇野千代と知り合い結婚。10年足らずで離婚。別れた宇野千代は彼のことを、欠点といえば人に好かれ過ぎる事、と評した。人生劇場では流行作家としての地位を確立、歴史小説にも才能を発揮。
主な作品は鶺鴒の巣、人生劇場、石田三成、天皇機関説など。
<樋口一葉>
明治5年(1872)〜明治29年(1896) このあたりに足跡多い
この坂を下って400mほど先の左側、石段を下った辺りに一葉が18歳から21歳頃まで暮らした旧居跡があり当時の井戸も現存している。東大赤門前に父が旗本屋敷を購入し割りと裕福であった生活も父の死後一転ここに引っ越し、他人の洗濯や針仕事で母や妹を養いつつ古典を勉強した。近くには彼女の通った伊勢谷質店の建物がある。
主な作品は、うもれた木、大つごもり、たけくらべ、行く雲、にごりえ等。これらの作品は平安文学を思わせる優雅で流麗な擬古文体で、封建制度下の人々の悲劇を的確に描写しさりげなく描いている。小説家として一流の名声を得た作家で24歳の若さで没したのは外国にも稀であろう。生活の悲惨さが結核を悪化させたものであった。
<徳田秋声>
24歳で尾崎紅葉の門下に入り部落出身の親娘を書いた(薮かうじ)が出世作となり泉鏡花等とともに紅葉門下の四天王と称された。男女の愛欲と葛藤を書いた作品で無理想、無解決という自然主義作家、私小説作家の第一人者と目された。非情ともいえる徹底した客観主義により自然主義作家の中でも最もその理念に忠実な作家であった。
主な作品は、新所帯、黴、爛、あらくれなど。この近くに住居跡が彼の手植えの笹竹とともに現存し今も住居として使用されている。
<坪内逍遙>
安政6年(1859)〜昭和10年(1935) 近くに住居跡あり
小説家、劇作家、評論家、英文学者、教育家。この坂を200m程下った左手台地上(区立図書館向かい)にあった松山藩の寄宿舎常磐舎に住んでいた。ここには彼を慕う文人達が訪れ門下生として子規、虚子等が下宿していた。模写(写実)小説こそ最も進歩した芸術としての文字の姿であると主張した。そして模写すべきは人情であり、世態風俗であると主張した。
主な作品は、小説神髄、当世書生気質、細君など。
<直木三十五>
明治24年(1891)〜昭和9年(1934) 菊富士ホテルに止宿
大衆小説家。文壇評判記に辛辣な筆を振るう一方、時代小説を執筆大衆小説の向上につとめた。その先駆的功績を記念するため文藝春秋社が昭和10年(1935)に直木賞を創設。
主な作品は、南国太平記、石田三成、足利尊氏など。
<竹久夢二>
明治17年(1884)〜昭和9年(1934) 菊富士ホテルに宿泊
画家、詩人。挿絵画家としてのいわゆる夢二式と呼ばれる女の型を創出した。大正期の日本の女性は夢二の絵を抜きにしては考えられない。胸が薄く細腰で伏し目がち大きな目をした女性が弱々しくうなだれている様子それは将に夢二の二人目の恋人そのものであったらしい。その彼女が亡くなって3番目の恋人お葉をモデルにこのホテルで書いたのが名作黒船屋である。彼女もまた夢二好みの容姿の女性であったようである。
主な作品は、夢二画帳、昼夜帯、路地の細道など。 |
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<石川啄木>
明治19年(1886)〜明治45年(1912) この近くに住居跡あり
東京朝日新聞校正係りの傍ら万葉集以来の短歌にたいし、内容と形式の上からこれに挑戦し口語を交えた三行書きにして生活感情を豊かにうたった。27年というごく短い生涯の内に文字に対する情熱を燃やし続けていたが、その生涯は家庭的経済的に恵まれず惨めなもので悲惨な生活が健康を害した。幼子の死、母と妻の不和、妻の家出、母の死、父の家出、これらが彼の死を早めたとも云える。とにかく日本の歌人の中でも最も知られている人であろう。この近くには彼の旧居跡が三ヶ所程ある。
主な作品は、一握の砂、悲しき玩具などの歌集。
<石川 淳>
明治32年(1899)〜昭和62年(1987) 菊富士ホテルに滞在
東京外語仏文科卒。翻訳業より作家の道に入る。在来の私小説的な色彩の濃い作家の中で、実生活と離れたところに自分の文字を築き戦後はめざましい活躍をした。
主な作品は、佳人、黄金伝説、焼け跡のイエス、狂風記など。
<正岡子規>
慶応3年(1867)〜明治35年(1902) この近所の松山藩寄宿舎常磐舎の坪内逍遙のもとに寄宿
俳人、歌人、松山中学校時代は自由民権運動思想に熱中し政治家を志す。東京に遊学中漱石と知り合い俳句を薦めた。古俳句の分類整理を行った後雑誌”ホトトギス”を創刊、俳句の再興をを図る。彼は芭蕉よりも蕪村をとる立場に立って特に写生を薦めた。
明治28年(1895)日清戦争の従軍記者として赴き帰国船上でで喀血、以後終生病臥の身となる。37歳の生涯に二万の俳句を遺した。
主な作品は、歌よみに与ふる書、病床六尺、俳諧大要など。
<真山青果>
明治11年(1878)〜昭和23年(1948) 菊富士ホテルに止宿
小説家、劇作家。医学部中退後各地を転々。小栗風葉の門下に入り新進作家として名声を博した。事情があって一時文壇を退いたが喜多村緑郎の薦めで新派の作者として再起。
主な作品は、南小泉村、茗荷畑、玄朴と長英、平将門等歴史物多数。周密な考証と鮮明な性格的対立が作風である。西鶴研究家としても有名。
<若山牧水>
明治18年(1885)〜昭和3年(1928) この近くに住む啄木を見舞い臨終に立ち会った
歌人。延岡中学を経て早大英文科に進学、同級に北原白秋がいた。平明、自由、清新をモットーに、旅を愛し酒を愛した歌人としてその歌は多くの人に愛唱されている。全国に八十を超える歌碑がある。
主な歌集には別離、死か芸術か、みなかみ、秋風の歌、山桜の歌、黒松など。 |
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<坂口安伍>
明治39年(1906)〜昭和30年(1955) 菊富士ホテルで充電後世に出た
大地主の家に生まれたが父の代に没落。代用教員を経て文学の道に入る。優れたエッセイを発表。独特な合理主義に立って伝統的形式美を嫌い実質的な物が美であると主張するが戦前は不遇。戦後(生きよ墜ちよ)と説く堕落論を発表。混乱期の社会に迎えられ一躍流行作家となる。
主な作品は、日本文化私論、堕落論、白痴、道鏡、安吾巷談など。
<佐藤春夫>
明治25年(1892)〜昭和39年(1964) 菊富士ホテル滞在の谷崎潤一郎をしばしば訪問
中学時代から文学を好み荷風を慕って慶応に入る。古風なスタイルの中に近代的知性をしのばせる豊かな抒情詩で注目を集めた。谷崎潤一郎の夫人と結婚後次第に古典への関心を深めた。
主な作品は西班牙(スペイン)犬の家、田園の憂鬱、晶子曼荼羅、都会の憂鬱など。
<宮本百合子>
明治32年(1899)〜昭和26年(1951) 菊富士ホテルに止宿
一流の建築家を父に明治の思想家の娘を母に裕福な家庭に育つ。女子大在学中トルストイの影響を受け(貧しき人々の群れ)を中央公論に掲載され注目を浴びる。ソ連に遊学、帰国後日本共産党に入党。戦時下もファシズムに強く抵抗し数度の検挙にあう。
主な作品は、乳房、杉垣、風知草、播州平野、道標など。戦後は精力的に活動するが昭和26年(1951)に急逝。
<宮沢賢治>
明治29年(1896)〜昭和8年(1933) 近くに下宿跡あり
詩人、童話作家。岩手県花巻で質屋を営む裕福な家に生まれる。仏教に信仰の厚い父の影響を受ける。早くから植物、鉱物に興味を持ち高等農林学校に学び農業改革の夢を抱く。大正10年(1921)上京、この坂を200m程下った左側石段下の家に間借りした。(当時の家は今は無い)。そして東大赤門前にあった文信社(現、大学堂眼鏡店)で校正係りとして勤務の傍ら宗教団体の奉仕活動に励み、休日は上野図書館に通った。”これからの宗教は芸術であり芸術は宗教です”との信念から月に三千枚もの原稿を書いたという。
同年、愛妹トシ喀血の報で帰郷するまでの一年間に名作の多くがここで書かれた。昭和8年(1933)急性肺炎で37歳の生涯を閉じたが死の前日まで農民の肥料計画の相談を受けていたという。
主な作品は、春と修羅、注文の多い料理など。生前は限られた人々の間にしかその存在は知られなかった。
<久米正雄>
明治24年(1891)〜昭和27年(1952) 近くの中央公論社をしばしば来訪
小説家、劇作家。東大英文科卒業後芥川竜之介、菊池寛らと第三次”新思想”創刊。漱石の知遇を得て作品を発表、軽快で新鮮な感覚を理知の躍動する新技巧派らしい作風で脚光を浴びた。漱石の長女に失恋した体験を題材に”螢草”で流行作家となる。
主な作品は、牛乳屋の兄弟、父の死、手品師、破船、風と月と、など。 |
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<芥川竜之介>
明治25年(1892)〜昭和2年(1927) この近くの中央公論社をしばしば来訪
実母が生後すぐに発狂。旧家である母の実家で育てられる。一高から東大英文科に抜群の秀才として進む。知的で完成した様式美を持つ短編小説で新技巧派作家の雄として活躍した。
中国旅行後健康を害し、身体の衰えと身辺の雑事にも追われ、神経を消耗服毒自殺。最も芸術家意識を濃厚に持った人の死は大正文学の終焉とみなされる。
主な作品は、羅生門、鼻、芋粥、蜘蛛の糸、奉教人の死、歯車、或る阿呆の一生など。
<夏目漱石>
慶応3年(1867)〜大正5年(1916) この辺りは彼の通勤コースであったろう
森鴎外と並んで近代文学史の中で傑出した存在。東大英文科卒後、文部省留学生としてロンドンに渡り帰国後一高教授として東大講師を兼ねる。
”我が輩は猫である”で注目を集め、坊っちゃん、草枕、などを発表溢れるばかりの文才で世人を驚かせた。弟子、友人を遇することの厚かった彼のもとにその文学、人間を慕う多くの文学者が集まった。俳句、書画などにも長じ、現代でも名声はますます高い。
主な作品は、吾輩は猫である、坊っちゃん、草枕、倫敦塔、三四郎、明暗、それから、こころ、道草、虞美人草など多数。
<宇野千代>
明治30年(1897)〜平成8年(1996) 菊富士ホテルで尾崎士郎と結婚生活を始める
貧しかった20歳の頃ここにあった燕楽軒でウェイトレスとして働く。従兄と結婚後尾崎士郎と結婚。更に東郷青児と同棲後ファッション誌(スタイル)を創刊服飾界でも活躍。北原武夫と結婚する。
主な作品は、脂粉の顔、色さんげ、おはん、刺す、或る一人の女など。
<宇野浩二>
明治24年(1891)〜昭和36年(1961) 菊富士ホテルに止宿
大正期における私小説作家を代表する一人。文学修行時代の彼は貧しさの余り女房同然の女を一度ならず二度までも売り、しかも売り先の色街から足抜きさせて母もろとも逃げ回った地獄も経験していた。その並外れた体験から庶民に題材を求め貧乏の苦労や愛欲のもつれをユーモアの漂った作品に仕上げている。菊富士ホテルの文人同宿者たちの頭目的存在であったのも頷ける。
主な作品は、蔵の中、苦の世界、子を貸し家、思い川など。
<谷崎潤一郎>
明治19年(1886)〜昭和40年(1965) 菊富士ホテルに止宿
26歳で作家としての地位を確立。大正8年(1919)ごろから本郷菊富士ホテルを仕事場にしていた。やがて潤一郎千代子夫人に対する一方的なわがまま行為に同情した友人の佐藤春夫と夫人は結婚することとなる。。
主な作品は、痴人の愛、刺青、卍、春琴抄、瘋癲老人日記、細雪ばど。 |
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<本郷菊富士ホテル>
大正3年(1914)〜昭和19年(1944)
この坂を下って200m程先、右側の坂を上り詰めた辺りにあったこのホテルは大正3年(1914)に上野公園で開催された博覧会に来日する外国人を目当てに建てられ、博覧会終了後は何時の間にか高級下宿に変身ひとかどの人物が次々と宿泊した。
終業までの30年間にここを仕事場としていた人達には谷崎潤一郎、竹久夢二、尾崎士郎、直木三十五、宇野浩二、三木清、大杉栄、坂口安伍、宮本百合子、高田保、広津和郎、宇野千代、石川淳等々枚挙にいとまがない。おそらくこの辺りを彼等が闊歩していた事であろう。日本の近代文学を語る上で忘れてはならない場所である。
<燕楽軒>
大正6年(1917)頃開業
この場所にあった店。芝居小屋、寄席を経てレストランとなる。腕のいいコックがいてなかなか美味な西洋料理を出し大使館のレセプションにも使われていたほどだった。貧しかった20歳の宇野千代がここでウェイトレスをしていた。大通りの向かい側に中央公論社があり、編集者が芥川竜之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫などという人達を連れて食事に来たことから彼女が小説家を志す機縁をつかんだ。菊富士ホテル住人の文人仲間であった今東光が彼女目当てに通ったこともあったらしい。 |