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江戸幕府が、駿府(静岡市)にあった銀貨鋳造所を慶長17年に江戸のこの地に移したことにより「銀座」という名が生まれた。銀座というのは、始めは地名ではなく、役所の名称であったが、明治2年に町名となった。かっては銀座西とか東銀座という町名があったが、現在では銀座はすべて銀座という名で統一されている。
銀座4丁目交差点は、昔は、「銀座の終わりで、尾張町の始まり」と言われていた。銀座の名前は、江戸時代初期にこの地に設立された銀貨鋳造所(銀座役所といった)にちなむ。江戸時代の銀座は、現在のような広範囲なものではなく、1丁目から4丁目のうち現在の中央通りを挟む狭い地区を指していただけであった。 |
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明治時代になると正式に銀座が地名となった。煉瓦街やガス灯が設置され町も整備されいった。明治10年に柳の並木が整備されたことから、現在でも町の木は柳となっている。今の広範囲な部分を銀座と呼ぶようになったのは、昭和の初め頃からである。ちなみに、今の銀座5・6丁目をそれまでは尾張町と呼んでいた。その地域の埋め立てを担当したのが、尾張藩であったところからきている。関東大震災のあとの復興事業で繁華街へと変化し、全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街もできていった。全国に数多くある「○○銀座」のいわば総本山というか本社というか中心的立場にある。
現在の銀座には、三越銀座店、松屋銀座店、松坂屋銀座店、メルサ、プランタン銀座などの百貨店、高級服飾店、飲食店などが並んでいる。 |
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慶長17年(1612)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治2年遂に銀座を町名とする事に公示する。昭和30年4月1日建立 銀座通連合会(「銀座発祥の碑」)
<銀座>
徳川幕府が銀貨を製造した役所が「銀座」です。慶長6年(1601)、末吉勘兵衛が徳川家康の命令で、後藤庄三郎光次とともに設立したとされる。また、堺の商人の湯浅作兵衛が同じく家康に命じられて、大黒屋湯浅作兵衛常是と名乗って、伏見に役所を設けた。これは後に京都に移転した。その他、銀座は駿府にもつくられたが、やがて江戸の移転した。後になって銀座の財政が苦しくなると、京都と江戸の銀座が統一され、銀貨の製造は江戸だけで行われるようになった。
銀座では、金貨に代用する一分銀や二分銀なども製造された。また、銅貨の製造も行われるようになり、四文銭(しもんせん)が製造された。
なお、東京の銀座は、昔ここに銀座があったことからつけられた地名です。また、京都市伏見区には銀座町という地名があるが、これも昔ここに銀座があったことからつけられたもので、ここが銀座だったことを伝える石碑も建っている。
<金座>
徳川家康は、大判、小判などの金貨の製造を始めた。そのうち大判を除いた小判などの金貨を製造した役所が「金座」です。家康が京都の後藤庄三郎光次に命じて、江戸の本町(現在の日本銀行本店所在地)で、小判を鋳造させたのが金座の始まりとされる。
初めのうち、金座では自分たちで小判をつくるだけでなく、小判師という職人集団が製造した小判に刻印を押す仕事もしていたが、やがて全ての小判が金座で製造されるようになった。また、江戸初期には、金座の支局が佐渡、京都、大阪などにもあったが、江戸中期以降は整理されて、江戸の限定された。
なお、大判は「大判座」という役所で製造された。 |
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<銀座中央通りの歩行者天国>
歩行者天国は、昭和45年(1970)年に都内の代表的盛り場で実施されたのが始まりで、現在は、銀座中央通りや秋葉原、新宿で実施されている。ここ銀座中央通りでは、銀座通り入り口から銀座8丁目交差点までの間の通りが歩行者用道路になる。普段は車が行き交う道を、人が自由に歩くと、見える景色が違う。視点が変わるとこうも見え方が違うのかと驚く。正に「観自在」である。 |