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静岡駅前から呉服町通りを散策する。街角に『呉服町は五福町、「ゆとり、遊び、学び、暮らし、伝統」五つの福があるところ。」−−五感の幸福(しあわせ)』とある。
<呉服町の歴史>
今川氏の時代、呉服町は駿府の本町といわれ、当時から城下の主要地域であったことが知られている。現在のように呉服町の名が使われるようになったのは、駿府へ引退した徳川家康が慶長14年(1609)に行った町割において南に向かって順に一丁目から六丁目までの六ヵ町からなっていた。その名は、この地に今川時代末期(1560年代)から徳川時代初期(1620年代)にかけて絹座、木綿座の長であった伴野宗善(友野宗全)が住んでいたためつけられたと言われている。宗善は町頭を勤め、駿府町割の際には奉行を補佐し、駿府のまちづくりに活躍した人である。また、呉服町には、その名のとおり、戦前までは十数軒の呉服店が通りに軒を連ねていたことが伝えられている。その後、戦前までは、この名は変わることなく踏襲されてきた。戦後の区画整理に伴い、旧一、二、三丁目が現在の一丁目に、旧四、五、六丁目が現在の二丁目になって現在に至っている。
また、呉服町は江戸時代の交通の大動脈「東海道」に面しており、多くの人が行き交う「賑わいの場」、「交流の場」であった。東海道は、七間町を通り札の辻で高札を見てから呉服町四丁目に入り、六丁目まで進んだ後、伝馬町方向へと曲がるコースがとられていたが、最初は、七間町ではなく、本通りを通って呉服町一丁目へと入るコースがとられていたようだ。その時代から、呉服町は東海道沿いの駿府の中心商店街だった。
その後、呉服町は、明治、大正時代を経て、昭和15年(1940)の静岡大火や、戦争による空襲という壊滅的な被害を経験しながらも、江戸時代から続く老舗商店やその時代時代の新しい商店が互いに競争しつつ、常に商都静岡市の顔となる商店街の歴史を刻み続けてきた。
<札之辻址>
江戸時代から昭和20年(1945)まで呉服町と七間町の交差点付近には「札ノ辻町」があった。東海道の道筋にもあたり、立ち並び商家を訪れる人達などで賑わっていた。四ツ辻の中には幕府の政策や法令をかかげた高札場が駿府町奉行所により設けられ「札ノ辻」名の由来となっている。 |
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呉服町通りに神社がある。ぶらりと寄り道をする。
<小梳神社>
小梳(おぐし)神社は、俗に少将井宮(少将井社)、略して「少将さん」と呼ばれ、駿府城の守護神として崇められていた。建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)が祭神である。
徳川家康は、駿府城造営の時も小梳神社を城内に残したが、寛永年中(1624〜1643)には、城内から移転し、再度、延宝3年(1675)に現在の地に移した。家康は、今川義元の人質として駿府にいた時、小梳神社境内でよく遊んだ思い出の場所として、この神社を大切にしたという。「なをりその記」によると、家康が人質として駿府に来た時、まず、この神社に立ち寄り、服装を改め、武運長久の祈願をして、その後に今川義元と対面したと伝えられている。当時、造営に当たった城代は、松平左近太夫で、延宝4年6月、神輿渡御の神事がはじまった。例祭日の7月27日、この風習は、今なお氏子の間に引き継がれ、隔年に大神輿が市内を巡行する姿は,夏の風物詩の一つとなっている。
明治以来、再三にわたる火災の被害に会ったが、その都度造営されるほど、地域住民が寄せる当神社の信仰には根強いものがある。
なお境内には、平田篤胤撰文による駿府の国学者新庄道雄の石碑がある。
<新庄道雄>
新庄道雄は駿府江川町に生まれた町人学者で幼い頃から、漢籍・天文・和歌等に親しみ、後には国学者平田篤胤に師事し「駿河国新風土記」を著した。この石碑は道雄の死後の天保7年(1836)に追悼のために作られたものである。碑文のおわりに
はふむしも なけかしそね わが道に 雄しきをぢの 石ふみぞこれ |
の和歌がしるされている。 |
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呉服町通りと交差する「青葉通り」、緑が目にさわやか。落ち着く空間で心和らぐ。呉服町通りの散策は、最初のキャッチフレーズとおり、五感の幸福が味わえる、そんな街であった。 |