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長崎新地中華街は、横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街である。この地に中華街が形成されたのは、江戸時代の鎖国下においても長崎はオランダ・中国に開かれていた。そのため、福建省出身者を中心とした中国人が長崎に住んでいた。1698年の大火で中国関係の建物が焼失した。そこで、中国からの貿易品の倉庫を建てるために海を埋め立てたのが新地である。この中華街の十字路には、荷蔵があった場所に記念碑が建っている。(下段の画像)
現在では東西、南北あわせて約250mの十字路は、長崎市の姉妹都市である福建省の協力でできた石畳。現在、中華料理店や中国菓子、中国雑貨など約40店舗が軒を並べている。 |
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夜の長崎新地中華街の景観。 |
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<新地荷蔵跡>
元禄11年(1698)、後興善町からの舵は、隣接する22町を延焼、樺島町や浦五島町の土蔵33棟に収納されていた唐船20隻分の貨物(代銀3,377貫目分)も全て焼失した。そこで、元禄15年(1702)に2年の歳月をかけて新地がこの地に造成された。敷地は東西は70間、南北は50間、総坪数は3,500坪のほぼ長方形で12棟60戸の土蔵が建てられた。 安政の開国後、新地も変貌、慶応元年(1865)の献納後は外国人居留地に編入された。
<九龍>
龍は中国で古くから伝えられている吉祥の象徴です。代々、皇帝が宮殿の威厳を示す装飾として用いられてきた。九つの数は、最高の徳と位を表し、九つの龍がそろうことによって永久の繁栄と富をもたらすものとして称えられている。 |
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