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七条大橋から西に向かう。鴨川の流れが日に照らされてまぶしい。
七条通は主要な東西路の一つで、平安京の七条大路にあたる通りです。起点は東山七条。七条通には東本願寺、西本願寺などがある。 |
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七条大橋を渡り終えると左手(南側)に小さな神社がある。
<松明殿稲荷神社>
伏見稲荷大社の境外末社で田中社ともいう。平安時代の天暦2年(948)に創始され、社名は、同10年(956)、勅により燎祭(りょうさい)が行われた際に「炬火殿」(たいまつでん)の号を賜ったことに由来すると伝えられる。また、江戸時代に出された「都名所図会」には、伏見稲荷大社の春の稲荷祭のとき、当神社の氏子が松明(たいまつ)をともしてその神輿を迎えていたことから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。
はじめ、黒門通塩小路辺りにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永8年(1711)現在の地に移ったとされる。
境内西側には、五条坂の安祥院の僧で、日ノ岡峠の改修、亀の水道跡などで知られる江戸時代中期の僧・木食正禅養阿の銘のある手洗石及び井戸がある。
大己貴命、伊弉諾命、伊弉冊命、猿田彦命、倉稲魂命を祭神とし、天智天皇像(木像)及び大友皇子像(木像)を安置する。
<わがまち再発見>
木食とは、米穀を断ち、木の実を食べて修行することで、この苦行を修めた僧は木食上人と呼ばれる。この苦行を修め、江戸中期に活躍した僧に木食正禅養阿上人がいる。
養阿上人は、丹波保津村の武士の家に生まれ、24歳で仏門に入り泉湧寺で修行を積んだと言われている。高野山で木食行を修めた後、諸国を行脚、京都に戻り七条大宮に「梅香庵」を構え念仏聖として洛中洛外の無縁墓地を回った。
同時に、東海道五十三次の難所といわれた日の岡峠や渋谷峠(山科区)の急坂を削り、人馬、牛車の往来を助けた。また、渇水に備え井戸を掘るなど様々な事業を行った。
七条大宮には民衆のため様々な事業に生涯を尽くした養阿上人の供養碑が、松明殿稲荷神社境内には上人寄進の宝暦2年夏と刻まれた井戸と手洗があり、数少ない遺跡として注目されている。(市民しんぶんより引用) |
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<七条仏所跡>
この地は、平安時代中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)定朝(じょうちょう)をはじめ、その一族・子弟・子孫が長く居住して彫刻に励んだ「仏所」(ぶっしょ)のあった所で、「七条仏所」「七条大仏所」と呼ばれていた。
定朝は、平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像(国宝)の作者で、「和樣」と呼ばれる優れた彫刻樣式を完成したほか、卓越した技術によって僧綱位の法橋を与えられ、仏師の共同組織として仏所の制度を整えるなど、仏師の社会的地位の向上に努めた。これらのことから、定朝は我が国における仏師の祖と仰がれている。
鎌倉時代に入って、この仏所から運慶・湛慶・快慶らが相次いで現れ、剛健な、また写実的な多くの名作を世に送った。しかし、室町時代に入って、彫刻は全体としてふるわず、この仏所も21代康正(こうしょう)のとき四条烏丸に移転した。その後、幕末の兵乱で火災に遭い、仏所の遺構は完全に失われた。 |
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河原町通との交差点。七条通は先に続いている。
次(下)は、七条大橋から東に向かう。 |
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三十三間堂の手前に「わらじ屋」、「御車八ツ橋」の店舗が見える。「わらじや」の玄関口には大きなわらじがかかっている。これは、豊臣秀吉がここで休憩しわらじを脱いだとのこと。店名もこのことから命名されている。江戸時代に創業した老舗で、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」に取り上げられている。「御車八ツ橋」は、京都銘菓の「八ツ橋」を販売している店の一つです。 |