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四条通りから三条通りのあいだを、南北に通じたこの通りを「新京極」という。京極とはもともと京の端という意味で、平安京時代、都の両端にそれぞれ東西各京極通りが南北にはしっていた。
天正年間(1573〜1592)豊臣秀吉が防御を目的とし、市街を整備、城下町とおなじように市中の寺院を東京極通りに集め、寺町と称した。その境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物を中心に発展するようになった。この寺町のひとつ東の通りが現在の新京極で、その名は明治5年(1872)につけられている。
新京極は、誕生当時から繁華街として京の人たちに親しまれ、現在では百余念の歴史を秘めながら、近代的センスあふれる街としてその名を全国になりひびかせている。 |
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四条通りから眺めた新京極通の出入口の様子。大勢の人の往来があり賑わっている。 |
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新京極商店街を歩く。いつ来ても大勢の人が行き交っている。賑やかな商店街のちょっとした隙間のような路地に静かな空間がある。
<錦天満宮>(錦の天神さん)
錦天満宮は11世紀初頭、菅原道真(菅公)の父親、菅原是善の旧宅「菅原院」に創建された。菅公の死後、嵯峨天皇の皇子源融の旧邸、六条河原院に場所を移し歓善寺の鎮守社として天満大自在天神を祀ったのが始まりといわれている。
そこから約300年の時を経て、後伏見天皇より「天満宮」の神号の直筆の文書を授与され、その際、河原院跡を京都八幡善導寺に寄進、塩竃宮を鎮守とする「歓善光寺」と改名された。後に、当天満宮が菅公聖跡二十五拝の第二番に位置づけられたのはそのためです。そして、「歓善光寺」の創建から274年後、桃山時代天正年間に行われた豊臣秀吉の都市計画によって「金蓮寺」の敷地に移転。以後400年余「錦天満宮」として同地に鎮座している。そして、明治5年には神仏分離令によって「錦天満宮」が独立、現在に至っている。 |
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<誠心院>
華岳山東北寺誠心院と号する真言宗泉涌寺派の寺で、才色兼備で知られる平安時代の代表的な女流歌人、和泉式部を初代住職とする。
寺伝によれば、関白藤原道長が、娘の上東門院(藤原彰子)に仕えていた和泉式部のために、法成寺東北院内の一庵を与えたのが当寺の起こりとされる。当初、御所の東側(荒神口の辺り)にあったが、鴨川の氾濫などにより一条小川(上京区)に移築再建され、更に天正年間(1573〜1591)、豊臣秀吉の命令でこの地に移された。
本堂は小御堂と呼ばれ、堂内には、本尊阿弥陀如来像をはじめ、和泉式部、藤原道長のそれぞれの像を安置している。境内には、和泉式部の墓と伝える法篋印塔(ほうきょう
いんとう)及び和泉式部の歌碑が建てられている。また、傍らの槇の梅の木は、式部が生前愛した「軒端の梅」にちなんで、後に植えられたものである。 |
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明治5年(1872)、京都府参事槇村正直は、東京遷都で衰えていた市民の士気を盛り上げるべく、寺院の境内を整理して、そこに新たな通りを造った。新京極の誕生である。
明治10年(1877)頃には芝居座、浄瑠璃、寄席などの興行場や飲食店などの多くの店舗が建ち並び、明治30年代には東京の浅草、大阪の千日前とともに、日本の三大盛り場として知られるようになった。
現在も、修学旅行生をはじめとする多くの観光客や買い物客で賑わう、京都を代表する繁華街である。
上方落語の始祖・安楽庵策伝が住職を務めた誓願寺、和泉式部の寺として知られる誠心院や、西光寺、蛸薬師堂妙心寺、安養寺、善長寺、錦天満宮、染殿院という由緒ある七つの寺院と一つの神社が通りの歴史を今に伝えている。 |