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堀川御池から御池通を東に向かう。御池通は京都に於ける主要な東西路で道幅が広い。ビルが立ち並び車の往来も多い。
<御池通>
平安京の三条坊門小路にあたる。(全長4.9q)東は川端通から西は天神川通(葛野中通)に至る。途中、JR二条駅で中断。呼称については、諸説あり、宝暦12年(1762)の京町鑑には「此通の号は神泉苑の前通ゆく斯くよぶ」とある。
延暦19年(800)に桓武天皇が行幸され以来、神泉苑に於いて雨乞いのエピソードを残している。神泉苑を原点とした御池通もかつては狭い道路であった。昭和20年(1945)堀川通より東は、道路拡張があり60m道路になった。 |
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油小路通、小川通、西洞院通、釜座通、新町通、衣棚通、室町通、両替町通を次々と横切り、烏丸通に出会う。この通りは堀川通と並んで京都の大通りである。 |
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間之町通との角に在原業平邸址の石碑がぽつんと立っている。在原業平は、伊勢物語の主人公とみなされており、六歌仙、三十六歌仙のひとりに数えられている。平城・桓武天皇の孫にあたる人物である。
間之町通を越すと高倉通である。その角には御所八幡宮がある。この神社は、応神天皇、神功皇后、比売神の三神を祭神とする。もと御池通堺町西南角御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通りの強制疎開によってこの地に移転した。
この八幡社を御所八幡宮と呼ぶのは、足利尊氏が邸内の守護神として勧請したと伝えられる由緒によってであり、尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また高倉八幡とも呼ばれて親しまれてきた。特に安産と幼児の守り神として有名で、三宅八幡とならんで「むし八幡」と呼ばれて世間の信仰を集めている。 |
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高倉通から堺町通、柳馬場通と横切り、富小路通と麩屋町通の間に「柊屋」がある。和風旅館の落ち着いた趣を感じる。「柊屋」から御幸町通を通り、寺町通に出る。寺町通に少し入ると「本能寺」がある。
本能寺は、法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日降上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正10年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折り、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。 |
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河原町御池の交差点を渡ると高瀬川に出る。高瀬川に架かる御池橋のたもとに加賀藩邸跡の石碑が立っている。
<加賀藩邸跡>
高瀬川の西側、河原町通にいたる間は、江戸時代、加賀藩(石川県)の藩邸があった。藩邸が初めて置かれたのは、江戸初期で、古絵図には高瀬川の橋に、加賀橋の名が残っている。藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛を指名して、各種の連絡事務に当たった。
加賀藩は江戸時代外様の最大の大名で、百二万七千石。前田家が代々藩主。幕末の加賀藩は、激動する政局の中で活躍することは少なかった。五代綱紀は学問芸術を愛好して文治政治を行った英主で、東寺の古文書を整理するなど京都との関係は深く、この伝統はその後も受け継がれた。この藩邸は、こうして文化的に京都と加賀を結びつける大きな役割を果たした。 |
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木屋町通を横切って進むと鴨川にさしかかる。鴨川の手前に夏目漱石の句碑がある。
<夏目漱石の句碑>
木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
春の川を 隔てゝ 男女哉 漱石
句碑は昭和41年(1966)11月、「漱石会」が明治の文豪夏目漱石(1867〜1916)の生誕百年を記念して、句にゆかりの現地に建てた。
漱石は、生涯、四度にわたって京都を訪れた。最初は明治25年(1892)7月、友人で俳人の正岡子規とともに、二度目は明治40年(1907)春、入社した朝日新聞に『虞美人草』を連載するためで、三度目は二年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、四度目は大正4年(1915)春、随筆『硝子戸の中』を書き上げた直後であった。
このとき、漱石は、画家津田青楓(せいふう)のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉」に宿泊。祇園の茶屋「大友」の女将磯田多佳女(たかじょ)と交友をもつが、ある日、二人の間に小さな行き違いが起こる。漱石は、木屋町の宿から鴨川へだてた祇園の多佳女を遠く思いながら発句を送った。句碑にある句である。
この銘板は、平成19年(2007)10月、京都での漱石を顕彰する「京都漱石の會」(代表・丹治伊津子)が発足したのを機に建てた。(平成20年(2008)4月)
鴨川に架かる御池大橋から南を見ると三条大橋が見える。御池大橋を渡ると川端通に出会う。ここで御池通りは行き止まりとなる。車は左右に曲がることになる。
川端通でこの散策は終わってもよかったのだがUターンする。同じ道を通ってもと思い、横断歩道を渡って御池通の北側の道に入る。今度は東から西に向かうことになる。 |
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川端通を西に進むと京都市役所前にさしかかる。物産展を開催していたのだが、片付けに入っていた。柳馬場通を右(北側)に少し進むと御池中学校の立派な校舎がそびえるように建っている。その前にある「見真大師遷化之旧跡」と「日本最初小学校 蜥r校」の石碑。
<見真大師遷化之旧跡>
浄土真宗の開祖親鸞上人(見真大師)は弘長2年(1262)この地にあった善法院にて90歳で入滅された。いつしか親鸞ヶ原と呼ばれるようになった当地に聖人を偲び、門徒が法泉寺を建立し、その後柳池小学校拡張に伴い法泉寺は移転した。そのおり門前にあったこの石碑を残し、聖人の旧跡を今に伝えている。
当地が虎石町と名付けられたのは伏せた虎のような姿の庭石と聖人が虎石と呼び親しまれていたことに由来する。聖人入滅のおり、虎石は涙を流したと伝えられている。虎石は現在東大谷に安置されている。
「見真大師遷化之旧跡」の石碑の横に「日本最初小学校 蜥r校」の石碑もある。これらは京都御池中学校(複合施設)の前にある。 |
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柳馬場通から御池通りに戻る。この後は一気に出発地点の堀川御池交差点まで戻る。陽が傾いてくる。
以下は、二条駅から烏丸御池に向かって西から東へ歩く。 |
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<若州小浜藩邸跡>(通称若州屋敷)
ここ池ノ内町一帯は江戸時代京都所司代を3代21年の長さにわたって務めた譜代名門の若州小浜藩酒井家12万2千石の京都藩邸跡である。その敷地は東西220m神泉苑町通から智恵光院通まで、南北260m御池通から三条通まで、その他家臣の屋敷が両側に続き、これらを含めると約2万坪の広大な藩邸であった。(二条城約8万坪)
又、この屋敷は後に徳川15代将軍となった慶喜が文久3年(1863)12月から使用し、慶応3年(1867)9月21日二条城に移るまでの3年10ヶ月、京都における幕府の活動拠点となり、この間ここで四賢候会議を始め、京都守護職、老中所司代ら幕閣要人等と協議を重ね、大政奉還の腹案を持って二条城に入り、慶応3年10月14日の布告となった。この屋敷が幕末我が国にとって重要な役割を演じ、その決断が下された場所である。
当時の面影を残すものは無く、唯一前に立っている燈籠があり、側面に萬延二辛西年二月(1861)正面に白須甲斐守源政口とある。 |
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<神泉苑>
延暦13年(794)、桓武天皇が平安京の造営に当たり、大内裏の南の沼沢を開いて設けられた苑地で、常に清泉が湧き出すことから神泉苑と名付けられた。
その境域は、南北四町東西二町という広大なもので、苑内には大池と中嶋のほか、乾臨閣や釣殿、滝殿などもあり、歴代の天皇や貴族が舟遊、観花、賦詩、弓射、相撲などの行事や遊宴を行ったといわれている。
天長元年(824)春の日旱(ひでり)に、この池畔で東寺の僧空海が善女龍王を祀って祈雨の法を修して霊験があったと伝えられ、以後当苑では名僧が競って祈雨の修法を行うようになった。
また、貞観5年(863)には、初めて当苑で御霊会が執行されるなど、宗教霊場として利用されるようになった。
現在は、東寺真言宗に属し、毎年5月1日から4日間の神泉苑祭には、壬生狂言の流れを汲む神泉苑狂言(京都市登録無形民俗文化財)が執り行われる。
<神泉苑と謡曲「鷺」由来>
京都の地形は北高何低で、昔この辺は湿地帯となっていたが、それをうまく利用して禁苑としたのが神泉苑である。かっては広大な地を占め、天皇御遊の庭園として、四季折々に華麗な行事が催されていた。また苑池には水鳥も多く野鳥観察に好適の地ともされていた。
「源平盛衰記」には醍醐天皇の時代、宣旨に鷺さえも羽をたたんで、かしこまった話がのせられており、謡曲「鷺」は、これをもとにつくられている。俗に”五位鷺”というのは、このとき天皇から五位の位を賜ったことから、このように呼ばれるようになったといわれる。
<恵方社>(左画像)
日本で唯一の恵方社。神泉苑の歳徳神(としとくじん)
<弁財天>(右画像)
神泉苑の弁天様は、安芸の宮島、京都繁昌神社の弁財天と同体で日本三体といわれており、悪縁を切り、良縁を結び、商売繁盛の神様です。
弁天様は、大弁天、美音天、妙音天とも云われ、歌や音楽を司るインドの女性の神様です。姿は青色の衣を付け頭に白蛇の宝冠を戴き、常に片足を立てて、手には琵琶を弾いている。
弘法大師が大日如来に祈願して「誰が一番護法の最上ですか」と尋ねれば「弁財天に如くはなし」と言われた。 |
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京都で一番小さな京町家という表示が掲げられていた家。
<不思議な礎石>
平安中期、藤原道長(1027没)の六男・長家が醍醐天皇の皇子・左大臣源兼明の邸(御子左第)を受け継いだ邸の礎石ではないか?又道長が法成寺建立の折、諸大臣や神泉苑の門・近隣の坊門等の礎石を曳き出させた時の忘れ礎石ではないかと云われている。
御子左家は、平安・鎌倉時代の歌道家系の元祖であり、後に定家・為家と続き、歌壇の実権を握った。その後、三条家・京極家・冷泉家と三家に分かれ、それぞれ歌壇に重きをなし継承されていく。
明治時代に御池通拡幅の折、掘り起こされ、以来この場所に鎮座している。(歴史をみてきた石。この付近は平安京跡・堀川御池遺跡である。) |