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烏丸通(からすまどおり)は京都市の代表的な南北通りの一つで京都のメインストリートとなっている。四条烏丸交差点周辺を中心として多くの会社や銀行が並んでいる。この通りの下を京都市営地下鉄烏丸線が通っている。かつては平安京の烏丸小路にあたる。なお、本来は「からすまる」と読むと何かに書いてあったが今は「からすま」と読んでいる。 |
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烏丸通は京都市内の重要な幹線道路の一つであるが、歴史的な遺構(跡)も残っている。同志社大学の門左側には「此付近薩摩藩邸跡」の石碑が立っている。
<薩摩藩邸跡>
現同志社構内の敷地一帯は、幕末に薩摩(鹿児島県)藩邸があった所である。京都薩摩藩邸がはじめに置かれたのは中京区錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久2年(1862)にここに大きな藩邸を設けたのである。敷地の広さ、5805坪(約19000u)、9棟の建物と多くの土蔵が立ち並んでいた。
薩摩藩は、鎌倉時代以来の名家島津氏を藩主とする外様の雄藩で、石高は約77万石。幕末に藩政改革に成功してから中央政局に発言力を強め、公武合体運動を展開、ついで長州藩と同盟して武力倒幕に転じ、幕末、維新の政局の主導権を握った。藩邸はこうした活躍の根拠地であった。 |
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<藤井右門宅跡>
この地に江戸中期の尊王論者藤井大和守直明(右門)の居宅があった。
右門は播磨赤穂藩の遺臣の子で、享保5年(1720)富山県小杉町の生まれである。京都に出て竹内式部らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。宝暦8年(1758)幕府が右門ら尊王論者を弾圧した宝暦事件がおこり、右門は江戸に逃れて山縣大弐のもとに身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を講義した。しかし、幕府は明和3年(1766)ある事件にかこつけて右門と大弐をとらえ処刑した。(明和事件)。享年48歳。
それから約百年、右門らがさきがけとなった尊王論は多くの志士の心をとらえ、明治維新の思想の主流となった。末孫九成、多門らもその遺志をついで勤王家として活躍した。
右門の旧宅は、現同志社大学の地に薩摩藩屋敷があった関係から、志士たちの会議連絡場所としても活用され、明治維新の史蹟としても忘れがたい。屋敷は大正11年(1922)区画整理のため取り壊されたが、大正12年(1923)、右門の顕彰碑が建てられた。 |