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<魚屋町>(うわいまち)
多くの魚屋が軒を並べた町。「うわい」は魚市が変化したものといわれている。同町元にある浄土宗正福寺は、多くの八幡商人を檀徒として江戸期の朝鮮通信使の来町にあたっては随行する対馬藩主宗氏の昼食場所にあてられた。 |
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<旧米澤商店記念室>
米澤嘉平は東京日本橋の白木屋呉服店(後の白木屋デパート)の番頭であったが、年季奉公の満期にあたり暖簾(のれん)分けを許され、故郷の蒲生郡八幡町魚屋町中で呉服屋「金嘉」の屋号で店を開いた。
店屋敷は京街道筋と魚屋町通りの交差点で近江商人の末裔として一時代を築いた。その孫にあたる安藤絹子は、昭和19年(1944)満州で夫が戦病死すると、すでに商いをやめていた実家にもどり、女手一つの苦労に耐えながら二児を育てた。その生業は戦後の混乱の中、京都からこうもり傘や運動靴などの生活物資を仕入れ、琵琶湖に近い農家など売り歩くことから始め、後には京の呉服や婦人服を扱い市中広くお得意先を培った。
この屋敷は安藤絹子が、辛苦の涙とともに支えた旧米澤商店の一角である。 |
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