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<新町>
安土城下の新町を移したものだと考えられる。その内、四丁目については「浅小井町」と呼ばれた時期があり、ここは安土の新町とは異なり浅小井出身者が占めたと考えられる。また、江戸期以降に多くの豪商を輩出しており、主な商人に安南屋西村太郎右衛門や山形屋西川甚五郎、大文字西川利右衛門、大文字屋西川庄六、一扇屋森五郎兵衛などが挙げられる。 |
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<近江商人>
近江商人というのは、江戸時代に近江中郡(蒲生郡、神崎郡、愛知郡)、ことに八幡・日野・五個荘を中心とする地域に根拠をおいて、行商と出店によって主として江戸、京都、大阪さらには、全国各地、遠くは北海道に至るまでたくましく進出し、めざましい活躍をなした有力商人たちです。
そのうち、日野商人は漆器類をもって、後には売薬・茶・呉服太物を商い、関東にも出店して、酒・醤油の醸造をなしたりした。八幡商人は、蚊帳を諸地方行商して発展し、五個荘商人は、雑貨・紅花・近江上布・編笠などを持ち下り、愛知川商人は、近江上布、長浜商人は、ちりめん、その他の取引で成功した。
その活躍形態は、商人として流通過程によって成功したようだが、実際はこれが基盤をなす地場産業、特産物が古来より滋賀県に集中特化していたことに由来するものと思われる。
また、近江商人は時勢を見抜くに敏で、八幡商人を中心として、海外雄飛したものが多く、なかでも、西村太郎右右衛門は遠く安南(現在のベトナム)に渡って交易に従事すること30年、正保4年(1647)長崎まで帰ったが、8年前に布かれた鎖国令で入国が許されず、やむなく持ち舟を絵師・菱川孫兵衛に写させ、故郷の日牟礼八幡宮に奉納した。『安南渡海の図』の絵馬が国宝として残っている。 |
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<近江八幡の商家の町なみ>
近江八幡の商家の町なみは、江戸時代の初めより全国各地で活躍した八幡商人の本店として、今に残る家並みが重要伝統的建造物群保存地区として選定された。
旧八幡全体が商家のたたずまいを残しているが、なかでも良好な状態で残っていた新町筋・八幡堀周辺・永原町筋を中心とする延べ約1.6kmの道筋に沿うコの字型の地区が選定されている。家屋の特徴は切妻・平入り・桟瓦葺きの木造建築で、主屋は中2階のものが多く見られる。中3階には虫籠窓(むしこまど)が見られるが、格子を付けた窓に変化しているものがほとんどです。
屋根には卯立つが上がるが、他の地域で見られるような豪華さはない。正面は格子や出格子で仕切られた窓や玄関になっているが、かつては刷り上げ戸を使い、昼間は刷り上げ戸を開けて開放し店の間とする方法を取っていた。
現在はこの店の部分を部屋として使用するため格子を設け区切りとしている。また、軒下の小壁に柱や貫を一筋見せる真壁作りは八幡の町並みの大きな特徴と言える。玄関はそのまま土間となっていて家の奥まで続き裏庭に通じるようになっている。間口は平均して狭く、奥行が長いうなぎの寝床のようになっているが、大店では間口をゆっくり取り、土蔵と主屋が並ぶ所もある。家と家はくっついて建っていますが、その間に中庭を造り板塀(工作物として保存)で囲み、中庭に松を植えて板塀越し松を見せるようにしてある。これを見越しの松と呼んでおり、環境物件として保存対象になっている。
一方、八幡堀周辺はかつて八幡堀が湖上運搬の要であったときに、周囲には土蔵群が建っていた。今はかなり減ってしまったが、修理・修景として土蔵を直している。また八幡堀の両側にある石垣も保存対象となっている。 |
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<旧西川家住宅> (重要文化財)主屋1棟 土蔵1棟
西川利右衛門家は江戸時代から明治時代前半にかけて栄えた商家であったが、昭和5年(1930)に子孫が絶え、現在は近江八幡市が所有している。
主屋は宝永3年(1706)に建築されたもので、県内の町家の中では古い方に属する。 居室部は、間口が6.5間、奥行が9間、間取りは中央に「通り土間」、表に面して「店」を構え、後方は二列の部屋割となり、二階は表側の半分に造られ、畳敷きの2部屋のほかは板敷きの「つし」になっている。
座敷は間口2.5間、奥行5間が主屋の北側に接し、奥座敷は「とこ」に「付書院」がつき数寄屋風に造られ、座敷玄関は表通りの板塀戸口から「見越しの松」の中庭を経て通じるようになっている。
この住宅は建築当初にさかのぼって復元されたもので、質素な中にも洗練された意匠が随所にみられ、近江商人の本宅を知る好例として貴重な建物です。
土蔵は裏庭に建ち天和年間(1681〜1683)のもので、形式は大壁造りの本瓦葺です。内部は3階建てになっていて珍しい造りとなっている。 |
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<郷土資料館>
当館は、明治19年(1886)八幡警察署として建設され、昭和28年(1953)に改築されている。その後、昭和49年(1974)市立資料館として利用されるまでは、近江八幡警察署として利用されていた。
従来からヴォーリズの建築である可能性が指摘されていたが、明確な資料がなく推測の域を出なかったが、ヴォーリズが創設したヴォーリズ建築事務所が所蔵する図面から、平成19年(2007)に当建築の図面が発見された。これにより、同事務所が改修を請け負ったことが判明した。 |
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<森五郎兵衞邸>
初代五郎兵衞は、伴傳兵衞家に勤め、別家を許され、煙草や麻布を商った。やがて、呉服・太物など取扱商品を増やし、江戸日本橋や大坂本町にも出店するなど活躍した。昭和6年(1931)に村野藤吾設計により東京日本橋室町に地上7階の「近三ビル」(屋号:近江屋の「近」、三左衛門の「三」より命名)を建築し、現在も近三商事として健在です。
なお、市立資料館の一部である歴史民俗資料館は、かつて森家の控宅で、昭和54年(1979)に市へ寄贈されたものです。 |
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<西川庄六邸>(左画像)
2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし、蚊帳・綿・砂糖・扇子などを商った。3代目の頃になると、江戸日本橋4丁目にも出店し、薩摩藩島津氏の指定御用商人になるなど本家(西川利右衛門)に次ぐ豪商となった。8代目は文人墨客との関わりも深く、一燈園「西田天香」氏らとの交流もあった。
現在も、東京、大阪、京都に本支店を持つ「メルクロス株式会社」として活躍中です。当建築は江戸中期の建物で間口は13m、奥行は14.9mある。左側に座敷部分が張り出し、他にも「でみず間」「化粧間」「板塀」「表土蔵」などあるたいへん規模の大きい町家です。
<旧伴家住宅>(右画像)
伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で屋号を扇屋といい、寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商った。5代目の伴蒿蹊は18歳で家督を継ぎ、大坂淡路2丁目に出店。学問にも興味を持ち、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者でもあった。以後も、伴家は繁栄を誇りましたが、明治維新等の激動期に逆らえず明治20年に終焉した。
今に残る旧伴家住宅は7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、文政10年(1827)より天保11年(1840)の十数年をかけて建築したものだが、明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校と変遷し、戦後は近江兄弟社図書館として使用され後に近江八幡市立図書館となり、移転に伴い平成9年(1997)にその役目を終了した。その後の整備事業を経て、平成16年(2004)より市立資料館の一部として開館している。 |