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「御府内備考」は三浦坂について、「三浦志摩守下屋敷の前根津の方へ下る坂なり、一名中坂と称す」と記している。三浦家下屋敷前の坂道だったので,三浦坂
と呼ばれたのである。安政3(1856) 尾張屋版の切絵図に、「ミウラサカ」・「三浦志摩守」との書き入れがあるのに基づくと、三浦家下屋敷は 坂を登る左側にあった。
三浦氏は 美作国(現岡山県北部)真島郡勝山 二万三千石の藩主。勝山藩は幕末慶応の頃、藩名を真島藩と改めた。明治5年(1872)から昭和42二年1月まで、三浦坂両側一帯の地を真島町といった。「東京府志料」は「三浦顕次ノ邸近傍ノ土地ヲ合併新ニ町名ヲ加ヘ(中略)真島ハ
三浦氏旧藩ノ名ナリ」と記している。坂名とともに、町名の由来にも、三浦家下屋敷は関係があったのである。
別名の中坂 は、この坂が三崎坂と善光寺坂の中間に位置していたのにちなむという。 |
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<旧谷中真島町>
江戸時代末の本町一体は武家屋敷地であった。美作国(現在の岡山県)真島藩下屋敷があったのもこのあたりである。藩主は二万三千石を領する三浦氏で慶応の頃(1865)藩名を勝山藩から真島藩にかえた。真島は美作国の郡名で、勝山はその真島郡の一地名であったことから、郡名をとって真島藩にあらためたものである。
本町は明治5年(1872)に真島藩下屋敷と周辺の武家屋敷を合併して誕生した。町名は真島藩にちなんでいる。
この付近は上野台地から愛染川流域の斜面にあたることから坂が多い。そのうちのひとつが臨江寺裏から宗善寺へ上がる「三浦坂」。そして三浦坂を登るとそこに「大名時計博物館」がある。江戸時代初期に作られた櫓(やぐら)時計をはじめ、枕時計、印籠(いんろう)時計など六十点が展示されている。
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