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<幕末志士葬送の道>
この道は、当地の東突当たりにある霊鷲山正法寺の参道です。「霊山正法寺道」などという。その境内に、文化6年(1809)、地下(六位以下の貴族)の村上都トが霊明社(現霊明神社)を創建した(霊明神社文書)。徳川幕府の宗教政策により、原則すべての国民が仏教徒とされていた時代に、神道による葬式(神葬祭)を始めた。
幕末期、3代目神主村上丹波都平のとき、神葬祭を進める長州毛利家などと縁ができ、在京志士の葬送・祭祀の地とされてきた。
文久3年(1863)7月29日、長州系志士である土佐の吉村虎太郎が、前日に亡くなった友人宮地宜蔵の埋葬・祭祀を依頼したり(同日付村上都平宛吉村虎太郎書翰)、元治元年(1864)3月4日、長州の久坂義助(玄瑞)が、先祖の永代供養を任せたほか(同年3月25日付妻宛書翰)、同年6月7日、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿らの遺体を長州屋敷が埋葬したことはほんの一例です(同年6月13日付里村」文左衛門ほか宛塩屋兵助ほか書翰)。
慶応3年11月17日(1867)12月12日)夜、2日前に河原町蛸薬師の近江屋新助方で、京都見廻組の襲撃を受けた坂本龍馬・中岡慎太郎・龍馬の家来藤吉も霊明社に葬られた(同年12月4日付中岡源平宛清岡半四郎書翰)。彼らの遺体はこの道を通ったに相違ない。
維新後は、明治新政府の方針で、霊明社・村上氏の所有地の大半が没収(上知)され、創建まもない東山招魂社に譲られてしまった(霊明神社文書)。現在、龍馬らの墳墓がその後身である霊山護国神社の所有・管理とされているのは、以上の理由による。
長州志士や龍馬らの遺体が、もともとこの道を通って霊明社に託されていたという歴史事実を忘れてはならない。幕末史蹟としての霊明神社を認識され、龍馬らの墓参(霊山護国神社の参拝)とあわせて、霊明神社へもお参りくださることを願う。
なお背後の墓地には、もと「土佐高知藩神霊社」があり、東側の小高い部分(現在マンションの建っている地)には、大和国(現奈良県)で挙兵・戦死した、前述の吉村虎太郎ら天誅組志士の墓があった。現在は霊山護国神社内に移されている。
2010年(平成22年庚寅)10月 歴史地理史学者 中村武生 |
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産寧坂から二寧坂と下りてきて、一念坂の少し前にあたるところで右手の方へ曲がる坂道がある。料亭京大和の裏手にあたる。その坂が龍馬坂である。この坂を上がっていくと正法寺方面に続いていく。上がっていくときは気がつかなかったが、下っていくと八坂の塔が眼前に広がってくる。
産寧坂〜二寧坂の賑わいを味わってきた身にとっては、ここでの静かさは別世界である。まず人通りはない。たまに一人二人と歩いていくだけである。東山の歴史ある地区で、こんなにも静寂な空間があるのかと新発見でもしたような錯覚に陥る。 |
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