|
|
|
|
|
|
|
|
この坂道は古くからあったが産寧坂(三年坂)の手前の坂という意味で、この名が通り名となった。「ここでつまづき転ぶと二年以内に死ぬ」という言い伝えは「石段、坂道は気を付けて−−」という警句が語り伝えられたものと思われる。
「坊日記」によると、「宝暦八年(1758)桝屋喜兵衛なる者、官の許可を得て、之を開拓屋地と為す」とある。以来この付近は「枡屋町」と称する。大正初期、現在の町並みとなり、国の町並保存地域に指定されている。(説明板より引用)
夏の暑い陽射し、太陽が見えていたのに突然の雷鳴と共に大雨となる。傘を持っていた人はいいが、ない人は店先に避難。この画像より以後は、とても撮影などできる状態ではなかった。足もとはびしょぬれ、靴の中までぬれてきてその後の歩きはとても困った。 |
|
|
|
|
|
|
|
4段目以降の画像は、別の日のものである。暑い日であった。ひっきりなしに人が訪れる。舞妓さんの姿で歩く若い女性の姿も見る。さぞ暑いことだろう。
産寧坂につづく清水寺への道である二寧坂は、観光客で賑わう。二寧坂の角付近に竹下夢二寓居跡がある。 |
|
|
|
|
|
<竹久夢二寓居跡>
明治・大正・昭和の3代にわたり波乱の人生を送った不世出の詩人・画家、竹久夢二は、大正3年秋頃笠井彦乃と出会い、運命的な恋におちた。彦乃は、東京日本橋の紙問屋の一人娘であり、彼女を愛する父は、後継者であった娘の恋に反対であった。
大正4年に結ばれた二人は互いに「山」、「川」と呼び合いつつ人目を忍ぶ逢瀬を重ね、ついには大正5年京都に逃れた夢二を彦乃が追うようにして訪れ、短くも至福の日々をこの地で送ったのである。夢二には、彦乃が訪れるまでの数ヶ月間をこの家で過ごしている。(竹久夢二) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
晩秋に再び訪れる。晩秋であったがかなり温かな日和であった。かなりの数の観光客で賑わっていた。 |
|
|
|
夜の二寧坂。昼間の人出はどこへ行ってしまったのか。人一人いない。静まりかえっている。自分の靴音しか聞こえない静寂の世界である。まるで別世界の二寧坂である。 |