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極楽寺切通は、極楽寺開山忍性が開いた道と伝えられ、京都・鎌倉間の往還路だった。
鎌倉・南北朝時代の武将・新田義貞は、元弘3年(1333)5月、一族を集めて討幕の挙兵をした。各地の合戦で幕府軍を撃破し、鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三隊に分け、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂の三方から攻めた。一方、幕府軍も三方に手分けして防戦。
「太平記」(巻第十 稲村崎干潟と成る事)はこの合戦のありさまを次のように記している。
『さる程に、極楽寺の切通しへ向はれたる大館次郎宗氏、本問に討たれて、兵ども片瀬・腰越まで引き退きぬと聞えければ、新田義貞、逞兵二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯を掻いて、数万の兵陣を並べて並みゐたり。』(引用文献 新潮日本古典集成 新潮社 昭和55年) |
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<日限六地蔵尊>
当地蔵尊は道行く人々を守り、お地蔵様の眼のとどく範囲で事故がおきても大事にいたらないと云われ、また善男善女が邪心を捨て心を清くもち願い事を期日を極めておすがりすれば、その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様であるとして、いつの世か日限地蔵と称されるようになったと云い伝えられている。 |
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