|
|
|
|
|
|
|
|
江戸時代、このあたりに名僧で名高い大超(だいちょう)和尚の開いた霊山寺(りょうせんじ)があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し浅草へ移転した。
この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になってその屋敷は清水精機会社の所有となった。
大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。そこで、町の人たちが清水家の徳をたたえて「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。(東京都文京区湯島2丁目1と3丁目1の間) |
|