|
|
|
|
|
|
この辺りは昭和40年までは「湯島切通町」といわれており、昔から奥州街道の脇道としてわずかばかりの町屋があった。江戸時代になって、旗本などの拝領屋敷ができ、元禄年中(1688〜1704)から街並屋敷となった。南側に切通坂があるので湯島切通町とした。
北側の隣接地は、家康の四天王の一人榊原康政の屋敷で、区内の大名屋敷の第1号である。明治維新で桐野利秋の所有となり、後に西郷隆盛とともに利秋が鹿児島に帰るとき、岩崎弥太郎の所有となった。戦後、物納されて現在は最高裁判所の研修所となっている。 |
|
|
|
『御府内備考』には「切通は天神社と根生院(こんじょういん)との間の坂なり、是後年往来を聞きし所なればいふなるべし。本郷三、四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり。」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。
初めは急な石ころ道であったが、明治37年(1904)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。
映画の主題歌「湯島の白梅」“青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し”で、坂の名は全国的に知られるようになった。
また、かつて本郷三丁目交差点近くの「喜之床(きのとこ)」(本郷2−38−9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。
二晩おきに夜の一時頃に切り通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川 啄木 |
|