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坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。
江戸期この一帯は、大岡主膳守の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を、次のように述べている。
「目白台に上れば、女子大学校程近し。さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を併せて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀りで通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。
<旧高田豊川町>
もと、小石川村の内である。延享年間(1744〜48)以前に町屋を開き、小石川四ッ家町(伝通院領)といった。
明治2年、町内の豊川稲荷神社の豊川と、付近一帯を下高田と呼んでいたので、町名を高田豊川町とした。
明治5年、旧大岡主膳正、稲垣摂津守、小笠原信濃守などの大名屋敷及び武家地を併せた。
明治34年、元小石川村飛地字豊川、高田村字明神下を合わせた。
明治34年、日本女子大学校(日本女子大学)が、目白台2丁目に、成瀬仁蔵によって創立された。成瀬記念講堂は、コンドルの孫弟子田辺淳吉の設計により建てられた。 |
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