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この坂は 直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は 獨協学園、右側は 東京カテドラル聖マリア大聖堂 である。
明治になって、旧関口町192番地に 鳥尾小弥太 (陸軍軍人、貴族院議員、子爵) が住んでいた。西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。
地元の人々は鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに 坂名を刻んだ石柱を建てた。
<旧関口町> 昭和41年までの町名)
正保(1644〜1648)のころまで関口村といっていた。むかしこの辺りに奥州街道の関所があったので村名にしたという。
また、神田上水を分水するため堰(大洗堰)を設けたので、関口の名が起こったという。また、神田上水を江戸川に分水するため堰(大洗堰)を設けたので、関口の名が起こったという。神田上水は、天正18年(1590)ころの開設と伝えられるので、それ以後に関口村の名称が起ったのではないかといわれる。
天和(1681〜1684)以後、町家が開かれ、享保5年(1720)ころには町並地となり、武家屋敷もおかれた。
明治5年、目白台の旧武家屋敷地、付近の寺地を合併して関口町となった。町が開かれるにつれて飛地ができ、数ヶ町に分かれた。 |
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