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西方清戸(清瀬市内)から 練馬区経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り,このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
この坂の南面に,元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。そもそも3代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。
坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。
かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し,不動尊は豊島区金乗院にまつられている。(別名:不動坂)
目白台の空を真北にわたる雁
稀に見る雁の四・五十羽かも 窪田空穂(1877-1967)
<旧 関口駒井町>
古くは、関口村の畑池であった。宝永元年(1704)町家を設け、元文2年(1737)ころ町奉行支配となった。町名の由来は明らかではないが、「若葉梢」に次の記事がある。
駒止橋(現・駒塚橋)の項目に、丸太橋であったころ、この上四ツ谷の南土手に馬多く宿して、駒込の馬市に出していた。目白不動の門前駒井町にも駒店(馬を売る)があった。駒店があり、駒がいるから駒居ー駒井の町名が生まれたのであろう。
明治4年、新長谷寺門前、大泉寺門前および武家地を合併した。目白坂上に新長谷寺があった。「時の鐘」として有名であったが、戦災にあい廃寺となった。 |
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