|
|
|
|
明治時代に道が開かれてから切支丹坂と呼ばれている坂。
切支丹屋敷跡の周辺には、本来の名前の他に切支丹坂とも呼ばれる坂が庚申坂をはじめいくつか存在する。これらの中で現在、切支丹坂と呼ばれているのが地下鉄丸の内線、茗荷谷地区の高架線トンネルから西方の小日向台地に上がるこの坂である。
江戸時代には坂の途中で南に直角に曲がり更に西に向かう坂(現在は住宅地に変わり消滅)で切支丹屋敷に到達していた。つまり江戸時代には、直線に結ぶ現在の坂はできておらず、明治20年代になって道が開かれ直線の現在の坂となった。この点で本坂を切支丹坂と呼称するのは正しくない。
しかし、『新撰東京名所図会』(第45編 小石川区之部其三 明治39年・1906刊)が、庚申坂は切支丹坂ではないと述べた上で「庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて、両側薮の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり。坂の上に往時切支丹牢屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり」と述べている。
以来、本坂は切支丹屋敷跡に隣接していることからも、切支丹坂と呼称すると雰囲気的にイメージしやすいこともあってか、こう呼ばれて書籍、地図にも記載されている。里俗に幽霊坂とも呼ばれていた。
とぼとぼと老宣教師ののぼりくる
春の暮れがたの切支丹坂 (金子薫園)
坂の左右は瀟洒な住宅地となっている。 (画像はHさんの提供) |
|