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<今井坂>(新坂)
『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案(あんずる)に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711〜16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(かねひら)(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
この坂の上、西側一帯は、現在国際仏教学大学院大学になっている。今井坂を上ったところ、もと大久保長門守の屋敷跡に、徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹(いちょう)のみである。
この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 迢空)
(この町とは旧金富町をさす) |
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前回の訪問の折りには工事中であった国際仏教学大学院大学は既に立派に完成しており、景観が一変している。3・4段の画像は9年後のもので、Hさん提供である。 |
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