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<坂南側の荒川区の説明>
西日暮里三丁目と台東区谷中七丁目の境を七面坂上から日暮里駅へ下る坂。江戸時代から用いられていた呼称である。
当時の絵図などから、天王寺(現谷中墓地)の下を通り芋坂下に続いていたいたことがうかがえる。
天保9年(1838)刊の「妙めを奇談」は寛永(1624〜44)の頃、白山御殿(将軍綱吉の御殿)や小菅御殿(将軍御膳所)と同様の御殿がこのあたりにあったことにより付いたというが、坂名の由来は明確ではない。(荒川区教育委員会の標識)
<坂北側の台東区の説明>
文政12年(1829)に成立した『御府内備考』には、「感応寺後と本行寺の間より根津坂本の方へ下る坂なり」とあるが、「根岸」 の誤写の可能性がある。明治5年『東京府志料』には、長さ15間(約27.3m)幅2間(約3.6m)とあるが、現在の坂の長さは50m以上あり、
数値が合致しない。以前は、谷中への上り口に当たる急坂を「御殿坂」と呼んだが、日暮里駅やJRの線路ができた際に消滅したため、その名残である坂の上の部分をこう呼ぶようになったと考えられる。俗に御隠殿
(寛永寺輪王寺見宮の隠居所) がこの先にあったからといわれるが、根拠は定かではない。(坂名の標識) |
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