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<寡黙は冗舌より強く>
毎年この季節になると、「忠臣蔵」の、とある場面が何となく気になります。それは最後の勝ちどきではなく、耐え抜いて雪に消えていく孤独な後ろ姿です。東京の都心を貫く六本木通りを路地へ逃れて、小さな少し険しい坂を上っていくと、「南部坂」の道標に出会います。坂のわきには米国大使館職員宿舎の広大な敷地があって、金網越しに異国の言葉が漏れてきます。堀際の溝に積もった落ち葉の色だけが、かすかに冬を告げていました。この坂が舞台の「南部坂雪の別れ」は、数ある忠臣蔵の見せ場の中でも、日本人の情感を特に揺さぶる名場面として知られています。
<残酷なまでの対比>
討ち入りの朝、大石内蔵助は、南部坂に閉居する亡き主君浅野内匠頭の妻揺瑤泉院のもとへ、決行の口上書を持参します。ところが、吉良方の間者の潜入に気づいた内蔵助は「西国のさる大名に仕官がかない、あだ討ちはあきらめた」ととっさのうそでその場を繕い、忘恩をとがめる瑤泉院のののしりに耐えながら、永遠のいとまを告げて立ち去ります。無人の門前に深々と一礼し、南部坂を遠ざかる内蔵助の無言の背中が、降り積もる雪のかなたに消え入ります。静けさが何より雄弁に、内蔵助の心の強さを引き立てます。
もっとも、史実によれば瑤泉院は、今は赤坂氷川神社に変わった生家で暮らしており、せっかくの名場面も後世の創作らしいのですが、とは知りつつも、ここで巻き戻してみたくなるのは、ことの発端です。
巷談では、内匠頭は吉良上野介の再三の嫌がらせに耐えきれず、殿中で刃傷ざたに及びます。冷静に見ていけば、法を破った内匠頭には明らかに非があります。にもかかわらず、「必ず無念を晴らしてほしい」と内蔵助にすがる内匠頭は雄弁です。この雄弁こそ,赤穂という国を滅ばし、十五歳の少年を含む四十七士の命を奪う引き金でした。内匠頭はやはり耐え抜くべきだったのではないか。せめて、すべてをわが身にのみ込んで、内蔵助に「かたきは討つな」と戒めておくべきでした。臣下の命と領民の暮らしを守るのが、領主の領主たるあかしです。どんなに言葉を飾っても、討ち入りの結果だけを問われれば、ただの「悲劇」にほかなりません。忠臣蔵は、寡黙に耐えて勝った男と、耐えきれず敗れた冗舌な男の生きざまを残酷なまでに対比します。歴史もまた寡黙ではありますが、現在へ常に語りかけていることを、私たちは忘れてはなりません。
<不在を描くうまさ>
討ち入りの現場になった吉良邸は、本所松坂町(現在墨田区両国三丁目)にありました。そこから南へ二`ほど下った深川一丁目で、今からちょうど百年前、日本映画の巨匠といわれる小津安二郎監督が産声を上げました。討ち入りの日の二日前でした。
百年を機にDVDが売り出され、内外で記念の上映会が開かれて”小津ブーム”が最高潮に達しています。どうして今、小津監督なのでしょう。小津監督は、目の前に「ない」ものを鮮やかに描いて見せた作家です。遺作になった「秋刀魚の味」には、サンマは一切出てきません。嫁いだ娘の無人の部屋のうつろを映す鏡台を見て、観客は男やもめの父親の孤独に同調し、ほろ苦い「人生」という”秋刀魚の味”をかみしめます。不在は存在より重く、寡黙は冗舌より雄弁です。小津監督は、六回も軍務についています。中国戦線では毒ガス部隊に所属しました。それなのに、結果的には戦争映画はのこしていないとされています。しかし、戦後の小津作品はすべて、戦場を描くことなしに戦争を描いていると言ってもいいでしょう。戦後第一作の「長屋紳士録」では、焼け跡の戦災孤児に温かいまなざしを注ぎ、「風の中の牝鶏」では銃後を守った母親の苦悩と夫婦の再生が語られます。代表作といわれる「東京物語」でも、中心にいるのは原節子演じる戦争に夫を奪われたヒロインです。中でも極めつきといえるのが、「秋刀魚の味」のこのシーン。大戦中駆逐艦の艦長だった笠智衆演じる父親が、かっての部下に酒場で「ねえ館長、どうして日本負けたですかね」と問われ、「けど、負けてよかったんじゃないか」とぽつり。背後には「軍艦マーチ」が流れています。小津の「非戦」も、叫び声より雄弁に観客の心にしみいります。
<”心ばえ”のありようは>
年ごとに繰り返される大石内蔵助の後ろ姿や、よみはえる寡黙な小津調は、この国の市井に生きる人々の”心ばえ”かもしれません。指導者の皆さん、「日本国に理念、意思、精神が問われる」と声高に叫ぶより先に、もう一度そこへ目を凝らし、耳を傾けてみてはいかがか。南部坂にまた雪が降る前に。(中日新聞 2003年12月14日)
この社説を読み、南部坂をこの目で確かめたく出かける。 |
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『江戸時代初期に南部藩中屋敷があったためといい忠臣蔵で有名である。のち険しいため難歩坂とも書いた。』(標識の説明より)
大石内蔵助が内匠頭の奥方に別れを告げる「南部坂雪の別れ」の坂。氷川神社の参拝客の中年夫婦からこの場所を教えて頂く。ここが南部坂かと思って感慨深かった。通る人はなく静まりかえっていた。 |
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下の画像は氷川神社の境内にある瑤泉院が暮らしていた跡地です。 |
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氷川神社境内にある瑤泉院が暮らしていた跡地で、案内板が立っていただけであった。 |