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城下町の名残を色濃く残す柳川には、町のいたるところを網目状に走る堀割を利用したお堀めぐり(柳川川下り)がよく知られている。 |
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手押しの和船で堀割巡りに出発する。 |
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堀割巡りのコースは複数あり、別のコースの出発地には乗船客をのせた舟が待機している。 |
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堀割沿いに設置されている伝統漁法の「くもで網」(上左画像)、北原白秋「待ちぼうけ」の歌碑(上右画像)。
待ちぼうけ 待ちぼうけ
ある日せっせと 野良かせぎ
そこへ兎が とんで出て
ころり転げた 木の根っこ
待ちぼうけ 待ちぼうけ
しめたこれから 寝て待とか
待てばえものは かけてくる
兎ぶつかれ 木の根っこ
待ちぼうけ 待ちぼうけ |
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<田中吉政>
田中吉政は天文17年(1548)近江国(滋賀県)に生まれた。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、天正18年(1590)、5万7千石余の岡崎城主となり、のちに加増され10万石の大名となった。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦では東軍に組し、敵将石田三成を捕らえた功績により、筑後一円の国主となり、柳川城を居城とした。
田中吉政は、天守閣の築造など柳川城の整備や各支城の強化、筑後川・矢部川の治水事業、本土居の築堤をはじめとする干拓事業、道路の新設・整備などの土木事業に業績を残しましたが、慶長14年(1609)2月18日、江戸参勤の途中、伏見で客死した。享年62で、京都の黒谷に葬られたとされている。 |