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梅小路公園にある「緑の館」の塀。垣根のような雰囲気を漂わせている。印象深い景観である。 |
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<西八条第跡>
西八条第は八条亭とも呼ばれ、平安時代後期、平清盛が平安京の八条壬生に構えた六町を有する広大な邸宅で、仁安元年(1166)頃に造営されたとする。その跡地は下京区歓喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町・八条町に当たる。
「平家物語」によると、清盛が邸内の庭に蓬(よもぎ)を植えたところから蓬壷(ほうこ)とも呼ばれ、白拍子妓王・妓女や仏御前の物語もこの邸宅での話しである。
清盛は仁安2年(1167)に太政大臣の位を退いてから摂津福原(神戸市兵庫区)に居を移したが、妻の二位尼時子はここに住み、邸内に光明心院を営んでおり、また、清盛も入洛の折はこの邸宅を使用している。
清盛は、安元3年(1177)6月の鹿ケ谷山荘事件の後、この邸宅でその処分を決めている。
また、「山槐記(さんかいき)」によると、治承3年(1179)12月16日、高倉天皇中宮で、清盛の娘である建礼門院徳子が生んだ2歳の東宮(皇太子)言仁(ときひと)親王(後の安徳天皇)がこの西八条第に行啓し、清盛は終日微笑みを絶やさず、指を湿らし障子に穴をあけ、孫と戯れて感涙にむせんだとされる。
治承5年(1181)閏(うるう)2月4日に清盛は64歳で没し、その2日後、この邸で火災が発生した。「平安物語」巻六によると「玉を磨き金銀をちりばめて作られたりし西八条殿、其夜(そのよる)、にはかに焼けぬ。・・・放火とぞ聞こえし」と記され、大小50余りの建物が焼けたとされる。
「玉葉(ぎょくよう)」によると、のちに再建された建物も、寿永2年(1183)7月25日、平家の都落ちに際して自ら火が放たれ邸宅は残すところなく灰燼に帰した。
文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦において安徳天皇は水死、平家はここに滅亡して、約400年間続いた平安時代は終わりを告げる。
西八条第跡の調査は、公園整備前の平成4・5年の春に行われ、柱跡や溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や炭化遺物も出土しており、西八条第で火災があったことを裏付けている。なお遺跡は盛土して保存されている。(案内板より) |
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