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奈良市の旧市街、歴史的町並みが残っているのが「ならまち」です。
<毘沙門町>
毘沙門天を安置した毘沙門堂がこの町にあったので町名になったといわれている。この堂にあった諸仏は現在この近くの法徳寺 の寺仏となっている。信貴山
の本尊であった毘沙門天は兵乱で持ち出され、このあたりの芝生に捨てられていたのを町の人が安置したという。
<薬師堂町>
元興寺から各地に三十三仏の一つといわれる薬師如来像を安置した会所があったところからつけられた町名。この像は、現在、鳴川町の徳融寺に祀られている。
<陰陽町>
時を司り、暦を作っていた陰陽師 たちが住んでいたところからつけられた町名。ここでは庶民が最初に手にした暦といわれる奈良暦(南都暦)が作られていた。町内にある鎮宅霊符神社は陰陽師の神と仰がれる天御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)を祀っている。
<芝新屋町>
元興寺が荒廃して芝の原っぱとなったが、天正 ・文禄(1500年代後半)年間に民家が建ちだし、芝新屋の名がついたものといわれている。
<鳴川町>
今は暗渠になっているが、坂の下の音声館の北側には川が流れている。その昔、群蛙が小塔院 の僧の読経を妨げたので、神呪を唱えこれを止めさせた。後世、蛙の声を聞かなくなったので、不鳴川(なかずがわ)と称したが、何時の間にか誤って逆に鳴川と呼ぶようになったという。
<花園町>
ここは元興寺伽藍の諸仏に供える花を育てた花園であったところから町名が生まれたと伝えている。「奈良七郷記」にも、花園郷を記しているので、ここには相当古くから町があったことがうかがわれる。
<瓦堂町>
宝徳年間(1449〜1452)ここに瓦葺きの一堂があって、これを瓦堂といった。町名はそこからきたといわれているが、一説に称念寺 の領内に瓦葺きの小堂があって、これを瓦堂と称したともいう。
<井上町>
「奈良坊目拙解」に「井上皇后 神輿舎元興寺南大門前に有りよって井上町と号す」とある。奈良町の氏神、御霊神社は元はこの町にあったが、1400年代の中ごろに現在の薬師堂町に移った。この町の延宝6年(1678)年から現在までの町の日記「井上町中年代記」は市指定文化財となっている。
<西新屋町>
この町は一名吉祥堂町とも鍛冶町ともいわれていた。吉祥天をまつる吉祥堂があったためで、鍛冶町の名も数件の鍛冶屋があったところから里人達はそう呼んでいたという。現在町の中程に、吉祥天
、地蔵菩薩 、青面金剛 などを安置した庚申堂がある。 |
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