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<平和祈念像建立のことば>
昭和二十年八月九日午前十一時二分、一発の原子爆弾が、この地上空でさく裂し、方五キロ一帯を廃きょと化し、死者七万三千余、傷者また七万六千余におよんだ。
哀愁悲憤の思いは、今なお胸を裂くものがある。
私ども生き残った市民は、被爆諸霊の冥福を祈り、かつ、この惨禍が再び地上に繰り返されることを防ぐために、自ら起って、世界恒久平和の使徒となることを決意し、その象徴として、この丘に、平和祈念像の建立を発願した。
かくて、私たちは、平和祈念像建設奉賛会を組織し、内外の熱烈な協賛のもとに、昭和二十六年春、工を起してより、ここに四年、念願の像を完成し、除幕式を挙げた。
この日、原爆十周年の日の前日である。
私は三十万市民とともに、この平和祈念像が、万人に仰がれ、世界平和に大きな貢献をなすものと信ずる。
昭和三十年八月
長崎市長 田川務 |
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<平和の泉>
昭和20年8月9日、原爆のために体内まで焼けただれた被爆者は「水を」「水を」とうめき叫びながら、死んでいった。
その痛ましい霊に水を捧げて、めい福を祈り、 あわせて世界恒久平和を祈念するため、核兵器禁止世界平和建設国民会議と長崎市は、全国からの浄財を基として、ここに「平和の泉」を建設した。
今日、ここを訪れてくださいましたあなたに、めい福を祈り、平和を祈念していただければ、誠に幸いと存じます。
長崎市長
噴水池の直径 : 18メートル
噴水の高さ : 0.5〜6メートル
刻々と変化する水形は、平和のはとの羽ばたきを形どりツルの港といわれる長崎港のツルも象徴している。
…………
のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から
山口幸子さん(被爆当時9歳)の被爆手記の一節。永井隆博士の「原子雲の下に生きて」(昭和24年(1949)出版)の中に掲載されている。 |
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<長崎刑務所浦上刑務支所>
長崎刑務所浦上刑務支所」は、松山町・岡町・橋口町の3か町にまたがる丘の上にあり、敷地約2万u、庁舎面積約1万3千uの爆心地にもっとも近い公共の建物であった。
昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、一発のプルトニウム型原子爆弾のさく裂により、刑務所内にいた職員18名、官舎居住者35名、収容者81名(そのうち中国人32名、朝鮮人少なくても13名)計134名全員が即死した。周囲の高さ4m、幅0.25mの鉄筋コンクリート塀は、ほとんど根元から倒壊し、木造庁舎も炊事場の煙突1本を残して倒壊全焼した。
平成4年(1992)、平和公園に地下駐車場を造る際に、地中から刑務支所の側溝や基礎部分等が現れた。おの一部を原爆遺構として残されている。 |
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<平和祈念像>
平和祈念像は、史上最大の惨禍によって瞬時に数多くの同胞市民を失い、筆舌につくし得ない悲惨苦に当面した長崎市民が、世界恒久平和の実現を広く世に訴えこの惨禍を再現せしめてはならないという切なる念願により、世界恒久平和のシンボルとして昭和30年(1955)8月の原爆10周年記念日に建立されたものである。
平和祈念像は、国内はもとより、海外からも拠出された浄財によって、彫刻界の権威、北村西忘氏製作による全長約10mの青銅男神像であり、上方を指した右手は原爆の驚異を示し、水平に伸ばした左手は平けく安らけくと平和のすすめる姿であり、頑丈な体躯は絶者の神威を示し、柔和な顔は「神の愛」または「仏の慈悲」を表し、また軽く閉じた目は戦争犠牲者のめい福を祈っている姿である。
なお、折り曲げた右足はめい想即ち静、立った左足は救済即ち動、何れも神仏の特性を表現したものであり本像はその規模において、またその思想において、この種の彫刻としては、世界にその類を見ない雄大な芸術作品である。 |