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<院政の舞台「六勝寺跡」と京都会館>
平安時代後期の院政期と呼ばれる時代、鴨東(おうとう)の白河と呼ばれた岡崎公園付近一帯には、天皇や皇室関係者の御願により寺院名に「勝」という字がつく六つの寺院があいついで建立され、総称して「六勝寺」と呼ばれた。
六勝寺とは、1077年に建立された国王の氏寺と称される法勝寺(白河天皇)を筆頭寺院として、尊勝寺(堀川天皇)・最勝寺(鳥羽天皇)・円勝寺(待賢門院)・成勝寺(崇徳天皇)・延勝寺(近衛天皇)がそれで、そのほか得長寿院(三十三間堂)や院の御所である白河南殿、北殿なども建立された。しかし、院政期に興隆を誇った六勝寺も、鎌倉時代以後には衰退してゆき、15世紀後半の応仁の乱などの戦火により廃絶してしまった。 六勝寺は、京都会館付近を中心に東西1.2q、南北1q以上もある広大なものであった。その中で2つの塔をもっていた尊勝寺が最もよく発掘調査が進んでおり、金堂や回廊、塔、阿弥陀堂、観音堂、五大堂、法華堂などの建物跡が検出され、推定寺域は240m四方以上もあって、京都会館第一ホール付近が金堂跡に当たる。
現在、地上には六勝寺を偲ぶものは何一つ残っていないが、地中には建物、溝、築地などの遺構のほか、瓦や土器などの遺物が大量に埋まっており、院政期の実態を解明する上で大変重要な手掛かりを与えてくれる遺跡でもある。 |
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