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<イギリス艦、鹿児島湾に現る>
イギリス人に死傷者を出した生麦事件を解決するため、翌、文久3年(1863)、イギリスは薩摩に7隻の艦隊をを派遣した。いわゆる薩英戦争である。イギリス艦隊入港の知らせを聞いて、大山巌、西郷従道、山本権兵衛も港へ急いだ。(加治屋町交差点)(左から
大山巌、西郷従道、山本権兵衛) |
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<樺山、黒田、大いに語る>
安政5年(1858)、幕府の大老に井伊直弼が就任し、将軍継嗣問題で、薩摩藩主島津斉彬を含む一橋派と激しく対立した。樺山資紀や黒田清隆など多くの薩摩の若者たちが、藩や日本の将来について日々語り合っていた。(高見馬場交差点)樺山資紀、黒田清隆 |
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<黒田清輝、桜島の噴火を描く>
大正3年(1914)、鹿児島に滞在していた黒田清輝は桜島の大噴火に遭遇。創作意欲を刺激された黒田は、この爆発を主題に絵を描いた。一連の絵は現在、鹿児島市立美術館に収蔵されている。噴火中の桜島をスケッチするため、黒田は弟子と共に港に向かった。(商工会議所ビル前)黒田清輝、弟子(山下兼秀) |
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<重豪、薩摩の科学技術の礎を築く>
安永8年(1779)、島津家第25代当主島津重豪は天文台の明時館(天文館)を設置し、薩摩暦を作成した。重豪はそのほかにも藩校造士館や医学院などを創設した。その先進性は第28代斉彬に継承され、明治維新への基礎を築いた。重豪は自らも家臣と共に天文について語り合った。(天文館・ぴらもーるアーケード)島津重豪、家臣(水間良実) |
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<伊地知、吉井、政変について語る>
幕府と改革派の覇権争いの中、安政7年(1860)に起きた桜田門外の変で井伊大老は暗殺され、幕府は勢力を弱めていった。ここ薩摩の伊地知正治、吉井友実、大久保利通ら精忠組(誠忠組)の間でも、この政変をめぐって様々な議論を重ねていた。(中央公園南側)伊地知正治、吉井友実 |