|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1863年の薩英戦争でヨーロッパ文化の偉大さを知った薩摩藩では、前藩主島津斉彬の遺志をついで、イギリスへ新納久修以下の留学生並びに外交使節団を派遣した。
当時爆破日本人の海外渡航を禁じていたので、甑島大島辺出張として、すべて変名を用いた。一行は1865年4月17日串木野羽島浦を出港して、道中驚きの目を見張りながら66日目の6月21日、ロンドンに到着した学生たちは、ロンドン大学に留学した。
留学生と共に渡航した新納久修、五代友厚らは、イギリスで紡績機械を購入し、1867年5月鹿児島市磯に日本最初の機械紡績工場鹿児島紡績所を建設した。機械の据付けや操業指導のため来日した英人技師たちの宿舎が磯に現存する異人館である。
更に松木弘安は、かつて2年間イギリスに滞在した経験を活用してイギリス外務省当局に働きかけ、天皇のもとに統一国家日本をつくる必要を力説して、イギリス当局の理解を得た。
以来イギリスの対日方針は一変し、フランスが幕府を支援するのに対してイギリスは薩長倒幕派を支援するようになり倒幕運動の進展に重大な影響を与えた。
また薩摩藩が1867年のパリ万国博覧会に、幕府と対等の立場で出品することになったのも、彼らの働きの結果である。
<留学生> ( )の数字は年齢
新納久修(34)、町田久成(28)、松木弘安(34)、五代友厚(31)、名越時成(21)、吉田清成(21)、中村博愛(25)、市来和彦(24)、森有礼(19)、村橋直樹(23)、畠山義成(23)、鮫島尚信(21)、田中盛明(23)、東郷愛之進(23)、町田実績(19)、町田清次郎(15)、磯永彦助(13)、高見弥一(31)、堀孝之(不詳) |
|
|
|
日本国内では薩長同盟の成立以後、幕府と討幕派の対立が激化し、国内政局は大きく動揺したが、討幕派の頂点に立つ薩摩藩当局は派遣団からのヨーロッパ情報に、大きな力を得て、情勢と有利に展開した。
留学生はその後、大部分の人がアメリカやフランスに渡って留学生活を続け、帰国後明治政府に仕えて、留学の成果を大きく発揮した、鮫島尚信、吉田清成、中村博愛は共に公使となって外交界で活躍、田中盛明は生野銀山の開発に尽くし、畠山義成は東京開成学校長、森有礼は初代文部大臣となって、いずれもわが国文教の発展に尽くした。松村淳蔵はアメリカアナポリスに海軍兵学校を卒業してわが国海軍の建設に力を尽くし、海軍中将となった。
留学当初13歳という最年少の長沢鼎は生涯をアメリカで送り、広大なぶどう園の経営とぶどう酒製造に新生面を開き、ぶどう王と言われた。
また使節団の新納久修は家老、のち司法官となり、町田久成は内務省に出仕、五代友厚は大阪商工会議所を創設して、初代会頭となり、松木弘安は外務卿となって活躍した。
このように、薩摩藩当局の勇気ある決断と若き薩摩の青年たちの積極的熱意とは、日本の歴史を大きく転換させ、新生日本んを建設する原動力となったのである。
<碑の由来>
薩摩は、明治維新など日本の近代化に有為の人材を輩出した誇り高き土地柄であり、現代の私たちにも先人の情熱が脈々として流れています。
この像は、日本の開化期に大きな役割を果たした薩摩藩英国留学生を主題とした「若き薩摩の群像」です。
薩英戦争において西欧文明の偉大さを痛感させられた薩摩藩は、鎖国の禁を犯し、1865年、藩士17名の留学生を英国に派遣しました。一行は、強靭な士魂と熱烈な郷土愛をもって異国における数々の障害を克服し、学問や技術を修め、帰朝後は、黎明日本の原動力となり各分野で不滅の業績を残しました。
わが鹿児島市が、今日50万都市達成の記念すべき時にあたり、私どもはこれらの偉業と古来進取的であったわが郷土の気風に学び、あすの郷土の限りない発展を念じてこの像を建立したものです。
昭和57年3月 鹿児島市長 山之口安秀
題字:山之口安秀 制作:中村晋也 |
|