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琵琶湖から流れ出る淀川水系の川。滋賀県では瀬田川、京都府に入るあたりでと宇治川、大阪府で淀川となり、大阪湾に注いでいる。
もののふの八十氏河(やそうじがわ) の網代木(あじろき)にいざよふ 波の行く方(え) しらずも
この歌は、柿本人磨が近江国(滋賀県)より奈良へ帰る途中に、宇治川付近で作った歌で、「宇治川の網代木で一時停滞しやがて行方知らずとなる波のように、滅びさった近江の都に仕えていた人々はいったいどうなったのであろうか」という意味である。
網代は秋から冬にかけて魚をとる仕掛けのことで、杭を川の中に上流に向かってV字型に打ち、杭の間に竹等で編んだ簀(す)を張り、氷魚(ひうお)(鮎の稚魚)をとるもので、この網代に用いる杭を網代木という。 |
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宇治川は淀瀬無 からし網代人舟 呼ばふ聲をち こち聞ゆ
この歌の作者は未詳で、「宇治川には、流れの緩やかな川瀬がないらしい。網代で魚を取る人の舟を呼ぶ声が、あちらこちらで聞こえてくる」という意味である。 |
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<宇治川先陣の碑>
古代より水陸交通の要衝であった宇治は、幾多の合戦の舞台となり、なかでも、寿永3年(1184)の木曾義仲と朝廷から義仲追討の任を受けた源義経の戦いは有名です。
天下の激流を挟んだ両軍の決戦は、義経軍の名馬「するすみ」に乗った梶原景季(かじわらかげすえ)と名馬「いけづき」に乗った佐々木高綱の「先陣争い」で幕を切って落とした。先陣は策にたけた高綱がとり、義経軍が一斉に渡河して義仲軍を打ち破った。この碑は、その故事に因んで、昭和6年(1931)に建立されたものです。 |
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