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水門川は、大垣市から南流し揖斐川に合流する運河で、永禄4年(1561)大垣城主氏家直元が、城池改築のとき開堀したと伝えられる。江戸時代におよび大垣十万石藩主戸田氏鉄により改修され、この地方に集散する貨客の水運は産業の振興とともに発展し、大垣と桑名・三河間の物資や人の輸送に大変な賑わいを見せていた。また、文化の興隆に大きく貢献した。当時は多量の自噴水が水門川に注ぎ、清らかな流れを見せアユ、ハエなど清流魚が泳ぎ回り、久しい歴史の中に庶民生活と結びつき、広く親しまれ育まれてきた。なお、この川は、大垣城の外堀として幾多の攻防の歴史に秘められた物語も多く、沿線一帯には今もなお奥の細道結びの碑、住吉灯台など歴史や文化財が多く残され、水と緑の調和の中に、詩情豊かな潤いのある風情をたたえている。 |
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元禄2年(1689)の秋、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅を大垣で結んだ。「奥の細道むすびの地」の碑が水門川沿いにある。芭蕉はこの川の船町港から舟で桑名に下ったのである。現在も船町港跡には、一艘の和船と貞享2年に建てられた燈台が残っている。
<船町港跡>
船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で、物資と人の往来の中心であった。明治16年(1883)には、大垣ー桑名間には蒸気船が就航したが、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。
<住吉灯台>
住吉灯台は、元禄年間(1688ー1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てられたものである。高さは約8m、四角の寄棟造りで、最上部の四方には油紙障子をはめ込んであり形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。(説明板より引用) |
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