|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
入鹿池は、江戸時代の寛永10年(1633)に造られたダムによって水を蓄えることのできた灌漑用貯水池である。
尾張富士の東、四方を山に囲まれた谷間に戸数160の入鹿村があった。入鹿という地名が初めて記録にあらわれるのは「日本書紀」で、安閑天皇紀2年(535)で、「尾張国に入鹿屯倉を置く」と記録されている。即ち入鹿池は、その入鹿屯倉の跡と推定されている。
この盆地には多くの小川が流れ込んで一本になり、それが南側の銚子口から流出していたので、ここを締め切れば盆地内に、一大貯水池ができるところからその水を使って小牧台地一帯を新田にしようとしたもので、長大な堰堤は近世の土木事業史からも貴重な遺構とされている。 |
|
|
|
この大土木事業をを起こしたのは入鹿六人衆と呼ばれた江崎善左衛門、落合新八、鈴木久兵衛、丹羽又助、鈴木作右衛門、舟橋七兵衛の六名で、尾張藩の新田開発政策とも合致するものであった。
水没する160戸の農民の補償は、家の間口一間につき金一両ずつ引っ越し手当金を支給した。引っ越し先は農民の自由だが、入鹿池の水を利用して新田を開発するならば好きな土地を好きなだけ取ってもよいというものであった。
犬山市街と明治村の途中前原には、その時移転した立派な神社と寺が残っている。また小牧には入鹿出新田の地名等もあり、往時をしのばせる。入鹿池は古代から近世、近代の歴史を湖底に深く沈めている池である。
池の周囲:約16q 池の面積:約170ヘクタール
最深部:約20m 灌漑面積:約86ヘクタール |
|