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浄福寺通の散策を建勲神社を出発地として南下する。
<建勲神社>
建勲神社は、船岡山の中腹にある。祭神は織田信長、その子織田信忠を配祀している。明治天皇が明治2年に創建した。建勲神社は、「たけいさおじんじゃ」と読むそうだが、一般には「けんくんじんじゃ」と呼ばれている。大祭は「船岡祭」(10月19日)は、織田信長が永禄11年(1568)に初めて入洛した日を記念したものである。
<船岡山>
船岡山は、標高112m、面積25,000坪の優美な小山です。今より1200年の昔、京都に都が定められる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が大極殿・朱雀大路となった。
これは、陰陽五行思想・風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る玄武の小山であるとされたためである。
平安朝の昔には、清少納言が枕草子で「丘は船岡…」と讃え、又、清原元輔・藤原俊成等、多くの和歌が残されている。船岡山は平安京の人々が若菜摘み、わらび採りに興じるまさに清遊の地であった。
戦国時代の応仁の乱の際、この船岡山が西軍の陣地になり、船岡山周辺一帯はその後、西陣の名で呼ばれている。この戦国の世を統一して太平の世を開いた織田信長が本能寺の変で没すると、豊臣秀吉は時の正親町(おおぎまち)天皇の勅許を得て、主君信長の御魂を、この船岡山に祀ろうとした。
以来船岡山は、信長の大切な地として伝えられ、明治2年、明治天皇がここに建勲神社を創建した。文部省は、日本の歴史の重要な舞台に、しばしば登場した船岡山の全体を、指定基準に基づいて国の史跡に指定し、地形や現状の変更をしないよう、保護を計っている。 |
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<称念寺>(猫寺)
本空山と号し、浄土宗知恩院派に属する。慶長11年(1606)茨城県土浦城主松平伊豆守信吉が師僧嶽誉上人のために建立した寺で、上人は同宗捨世派の祖・称念上人を開山とし寺号を称念寺と定め、自らを中興開基とした。当寺に葬られた松平信吉の母が徳川家康の異父妹であったので寺紋を徳川家定紋、三ツ葉葵とした。
寺伝によれば、3代目住職の頃、松平家と疎遠となり寺は荒廃していたが、ある夜、帰山した住職は、愛猫が美姫に化身して舞うのを見て怒り、これを追放した。数日後、猫が住職の夢枕に立ち松平家との復縁を告げ、住職に報恩し、寺は立派に再興した。以後、寺では猫の霊を厚く守護し、本堂前の老松は猫を偲んで植えたものである。このことから称念寺はいつか「猫寺」と呼ばれるようになったという。なお、本尊お内仏来迎仏阿弥陀像は平安中期の高層恵心僧都の作といわれる。 |
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織成館辺りの様子である。路も整備されており、散策も楽しい。
<織成館>(おりなすかん)
平成元年(1989)にオープンした「織成館」は、「西陣織屋建」を活かしたミュージアムとして開設された。この建物は昭和11年(1936)に西陣の帯地製造業「渡文」の初代当主・渡邉文七氏の「店兼住まい」として建てられたものです。水屋(炊事場/おくどさん=竈(かまど)など)を取り除き、1階と2階の一部も改装しましたが、梁や柱、狭い間口に奥行きの長い棟、明かり取りの天窓など、西陣の伝統的な家屋「織屋建(おりやだち)の特長をそのまま残している。
ここでは全国の手織物、能装束、時代衣装の鑑賞から工房見学、作品展示まで手織のすべてが体験できる。西陣織をはじめ全国各地の手織物などの常設展。幕末から昭和初期の着物や帯など約600点のコレクションの中から企画にあわせて展示する企画展など、手織りの素晴らしさを実感していただけます。また、西陣織のできるまでのビデオ映像設備も整っている。((財)手織技術振興財団のHPより引用) |
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織成館を過ぎると、左手に本隆寺が見える。ガイドブックに出ているのかいないのかわからないが桜が見事である。見学者がほとんどいないのでゆっくり眺められる。また、京都市指定保存樹のタカオカエデも見事な枝振りである。 |
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<岩上神社>(岩神祠)
「岩神」さんと親しみを持って人々に呼ばれている2m近い巨石が祀ってある。この巨石は二条城の南にあったのを内裏の築山に引こうとしたら吠えたとか、小僧に化けて神泉苑で怪をなしたとか伝える。子供に化けたこともあり禿童石とも呼ぶ。もと二条堀川辺にあったらしく、中和門院(後水尾天皇女御)の御所に移したところ怪異が起こったので、真言僧が当地に移し岩神寺の本尊として祀ったといい、授乳神として婦人の信仰を集めた。
寺は西陣焼けと天明の大火で類焼、一堂だけとなり、明治期に廃絶、巨石のみ残る。 |
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浄福寺通をさらに南に進む。壁や戸口にちょっとした飾りも見られ、楽しく歩く。 |
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<浄福寺>
浄福寺は、浄土宗に属する寺院で、一般には「赤門寺」の名前で親しまれている。創建・由緒は不明で、その後中世までは寺地を転々とし、元和元年(1615)に現在地に移ってきた。享保年間(1716〜36)には、鐘楼、南門を除く諸堂を焼失した。
本堂は、享保16年(1731)から同18年にかけて再建されたものである。入母屋造の礼堂と寄棟造の仏殿を、両下げ造の合間で接続した複合建築で、その変化に富んだ外観に特色がある。
本堂の東側には宝暦6年(1756)の再建になる三間堂の釈迦堂が建ち、また後方には玄関、享保19年の再建と伝える方丈が並んでいる。さらに、境内の南と東にはそれぞれ門が開き、南門の後方には鐘楼が建っている。鐘楼は寛永5年(1628)の再建、南門は17世紀前期の造営になり、共に享保の火災で焼失を免れたものである。東門は、江戸時代後期に現在の姿になったと考えられる四脚門で、全体に朱塗りが施されているところから「赤門」と呼ばれている。当寺の赤門寺という名称はこの門に由来する。
浄福寺の本堂以下一連の建物は、江戸時代中期における浄土宗寺院の伽藍配置及び建築様式をよく伝える貴重な遺構であり、昭和60年(1985)6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。 |
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中立売通にある正親小学校の北側フェンス沿いに豊臣秀吉が築いた聚楽第の石碑がある。そのすぐ横には、唐津小笠原藩邸跡の石碑もある。この辺り一帯は聚楽第が建てられていた位置にあたるようだ。
<平安京内裏綾綺殿跡>
綾綺殿は、天皇の住まいである内裏の中心建物である仁壽殿の東にあった南北に長い建物で、東側は壺庭を挟んで温明殿、南には宜陽殿があった。
いわゆる内裏十七殿の一つで、宮中の舞などが行われ、「年中行事絵巻」にも女楽人や6名の妓女が艶やかに舞う姿が活写されている。
身舎は東西2間で、南北9間のうち南5間を納殿として使用し、宮中恒例の行事に使用する御物などが納められていた。
丸太町通の交差点を渡り、更に南に進む。二条中学校で行き止まりになる。ここで浄福寺通の散策は終わりとする。 |