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平安京開設時の万里小路に当たる通り。応仁・文明の乱で荒廃したが、1590年頃から大規模に進められた豊臣秀吉の京都大改造により再整備された。その名の由来は、当時二条通付近に作られた遊里のまわりにきれいな柳の並木があったとも、その後、豊国祭臨時祭礼の馬揃えが行われた際にこの付近に柳が植えられたことによるともいわれている。
丸太町通から柳馬場通に入る。ここから五条通まで南下する。 |
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<京都ハリストス正教会>
京都ハリストス正教会生神女(しょうしんじょ)福音聖堂は、ギリシャ正教会の京都聖堂として、当時の京都府技師松室重光の設計・監督のもとに建てられた。建物は明治34年(1901)12月に完成していたが、ロシア正教会から寄附された聖障(イコノスタス)、教鐘、大燈明などの到着が明治36年(1903)3月であったため、聖堂成聖式は同年5月10日に行われた。
建物は、木造平家建のロシア・ビザンチン様式教会堂で、正面より玄関、啓蒙所、聖所、至聖所が一列に並び、最も広い聖所を中心とする十字形の平面構成となっている。聖所と至聖所とを仕切っている聖障は、柱と梁で区画されて油彩聖人像のパネル30枚が嵌められており、見応えがある。
この聖堂は、日本ハリストス正教会の聖堂のなかで、本格的なものとしては現在最古の遺構であり、以後に建築された木造聖堂の範例とされていたと考えられる。また、松室重光の日本における数少ない現存作品の一つとして貴重であり、意匠的にも、装飾が少なく簡素であるがその均斉のとれた外観は美しく、昭和61年(1986)6月2日、京都市指定有形文化財に指定された。 |
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蒲鉾の老舗「茨木屋」の昔ながらの堂々たる建物が目に入る。一文字瓦と格子、時代を感じさせる屋根の上の「蒲鉾」の看板、すっかり見入ってしまう。 |
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<見真大師遷化之旧跡>
浄土真宗の開祖親鸞上人(見真大師)は弘長2年(1262)この地にあった善法院にて90歳で入滅された。いつしか親鸞ヶ原と呼ばれるようになった当地に聖人を偲び、門徒が法泉寺を建立し、その後柳池小学校拡張に伴い法泉寺は移転した。そのおり門前にあったこの石碑を残し、聖人の旧跡を今に伝えている。
当地が虎石町と名付けられたのは伏せた虎のような姿の庭石と聖人が虎石と呼び親しまれていたことに由来する。聖人入滅のおり、虎石は涙を流したと伝えられている。虎石は現在東大谷に安置されている。
「見真大師遷化之旧跡」の石碑の横に「日本最初小学校 蜥r校」の石碑もある。これらは京都御池中学校(複合施設)の前にある。 |
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善法院跡は御池通と面しており、御池通の大きな交差点を渡り、三条通に向かって歩いていく。 |
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<日本生命京都三条ビル外観>
旧日本生命京都支店は、辰野金吾・片岡安の設計、山本鑑之進の施工により、大正3年(1914)7月に竣工した。この建物の外観は、辰野が「辰野式」と呼ばれる独自の様式で赤煉瓦造の建物を多く手がけており、一方、片岡安は石貼りを多用した直線的な細部意匠を用いていたことから、そうした両者の特色をよく示している。また、構造面においては、耐震性への配慮から、西欧の純粋な煉瓦造でなく、中に鉄筋を入れている点に特徴が見られる。
現在の建物は、昭和58年(1983)に改築されたものの、塔屋を含む東側部分が鉄筋コンクリート造で補強した上でファサード保存され、建築当時の外観を残すと共に、近代洋風建築が建ち並ぶ三条通において、歴史的景観のポイントともなっている。 |
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紙小物の鈴木松風堂の特徴ある店が左手(東)に見えてくる。店先に飾られている動物たちがかわいい。それに引きずられるように店内に入る。この鈴木松風堂は明治26年(1893)創業で、オリジナル製品が数々あり、興味深かった。
そこから少し歩くと錦市場の賑わいに出会う。 |
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大勢の人々が行き交う四条通交差点を越えると、万里(まり)小路町がある。この名前は平安京の万里小路とのことである。さらに進むと五条通に出会う。柳馬場通と五条通の角に扇屋・坂田文助商店がある。見事な扇子をしばし眺める。
柳馬場通を散策してきたが、町家あり、洋風建築あり、手工業的なものありと多彩で興味深いひとときを過ごすことが出来た。 |